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0701:「辞令です」

とある日常の、雑多な記録です。

日向坂についてはそこまで大きく関係していません。
あと、中盤くらいの内容が人によっては少し重いのでご注意ください。

「辞令です」

6月中旬のとある日、部長から言われる。
「とらんさん、明日30分くらい時間もらえる?」
そして、会社のスケジューラに入れられる、
「打ち合わせ」
という中身の分からない題名の予定。
この時点である程度察しはついていた。

普通、会社のスケジューラに、題名で中身がわからない予定は入れない。
だいたいは
「**開発打ち合わせ」
「ご説明:**に関して」
などとする。
3月とか6月に「ご相談」とか「打ち合わせ」とか、中身がわからない予定が入っている場合は、たいてい人事異動に関係している。

部長や主任同士であれば
「ああ、異動したあとのチーム編成とかの議論かもな」
となるし、上司と誰かが1対1であれば、
「**さんは次のタイミングで異動かもな」
と、察しはよくなっていく。

そんな予定が自分に向けて入れられれば、
「ああ、次のタイミングは自分か」
と察するし、周りの後輩とかも察していたと思う。

「察しているかもしれないけど、明日正式に辞令が出ます」
「7月から**事業部に異動です」
そう告げられた異動先も、驚きはなかった。

うちの会社は7月に異動することが多く、異動してもだいたい3年で戻ってくるが、そこはちょうど3年前に自分のグループから異動した人がいる部署。
その入れ替わりという、本命中の本命な人事。
賭けだとしたら、オッズはそうとう低いだろう。

そこで結構悩んだ。
これからの7月以降のいろいろなバランスをどうしようかなと。

仕事と、家庭事情と、日向坂と。
「ああ、忙しくて日向坂があんまり推せなくなるかもなぁ」
という気持ちだけというのとはまた違う。

これまでいた研究部門も、まあまあ忙しい。
でも仕事のほとんどは自身でコントロールできる体制であった。
実験などの計画も、ベンダーなどとの打ち合わせも、だいたいは自分でタイミングを決めることができる。
裁量労働制なので、昼過ぎにいったん外出して、夜にまた仕事を再開するなんてこともできた。

この自由度により、自分のペースでいろいろなことができた。
ただその自由度により、逆に多くのことを詰め込みすぎることができるため、2022年の4月頃からはいろいろとバランスが難しいものになっていた

自由度の恩恵

2022年の4月頭のとある日。
祖母の誕生日を祝おうと、愛知にいる祖父母宅に電話をした際。
祖父から告げられた、
「数日前から寝たきりになっているから、電話に出られる状況じゃない」
という祖母についての状況に動揺する。
「え?寝たきりってどういうこと?」

そこから電話でいろいろと聞いても、状況はよくわからなかった。
ただ、祖父が疲弊していることだけははっきりと伝わってきた。

実の娘にあたる母に伝えても、
「今すぐには休めない」
「次か、その次の週末には帰れないか調整してみる」
と返ってきたが、そんな猶予がある状況なのかはわからない。
そして直感的には
「このままでは状態が一気に悪化するのでは?」
とあまり猶予が無いような状況としか思えなかった。

急遽翌日に会社で、上司や先輩社員に休みを取れるか相談したところ、
「家族最優先で良い、仕事は全部周りに振ってもらって、あとのことは状況が分かってからで」
と言っていただいた。
本当に良い上司や職場に恵まれたと思ったし、感謝でしかない。

その言葉に甘えて、
「とりあえず、明日から2週間は年休にさせてください」
「今の状況がわからないし、2週間以上先も、そのままのペースで仕事ができるかも何もわかりません」
とだけ告げ、仕事を丸投げして一気に休みを取った。

実際に行ってみればそこには、直接寝室の畳の上に全裸で掛け布団だけかけて、ひざを曲げて仰向けで寝ている祖母がいた。
2・3回くらい受け答えしているうちに同じ話に戻ってきてしまうほどボケてしまっていて、短い会話しかできない。
「もうだいぶ重い認知症だな…」
とそこで認識した。

脚は伸ばそうとすると痛いそうで、立ち上がることなどできなかった。
掛け布団が無いと寒くて困るのだそうだ。
畳のシミや部屋の臭い、数日間寝たきりの状況だったというから、理由の想像も容易だった。

「自分たちは副反応がもし重かったら困る、だからワクチンも打たないし、東京はコロナが流行ってるから、コロナが無くなるまで来ないでくれ」
と祖父に言われ続けてきた2年半。
そんな2年半の間に、自分の家族は変わり果てた姿になっていた

2年半前は「同じ話が多いなぁ笑」くらいだったんだけどな。

このままだと床ずれしてしまうし、拘縮もしてしまう。
急いで車で市の施設をめぐり、そんな緊急性を伝えながら働きかけた。

その甲斐もあって、その3日後にはレンタルの介護ベッドなども導入でき、色々なケアの方々のおかげで、1か月くらいである程度歩けるくらいまで回復した。
1年以上経った今では、介護ベッドがいらなくなったくらいである。

ただ根本的な症状が良くなったというわけではない。
祖父からは
「お前が甘やかしているから良くならないんじゃないのか!」
と八つ当たりをされたこともあるけれども。
1年ぶりのCT写真を見たら脳のすき間は増えていたし、進行を遅らせることはできるが、良くなるものではない

祖父には説明しても理解してもらえていない。
無意識に理解しないようにしているのかもしれない。

それでも進行が緩やかになったことで、対応方法がだいぶ安定した。
隔週くらいで週末は車により行き来していたが、その必要性も薄くなった。
自由度の高い仕事に就いたのは、このためだったんじゃないかと。
そんな風にまで思えるくらいである。

奇しくもそんな祖母の状態を最初に知ったタイミングは、渡邉美穂さんの卒業発表とほぼ同時。
「今やらなかったら、後で絶対に後悔する」
と、彼女から何度もラジオで聴いていた言葉を胸に抱きながら、
「自分しかできる人がいない、やらなきゃ後で絶対に後悔する」
と、仕事との難しいバランスの中、自分を奮い立たせながら1年間、奔走してよかったと思っている。

そしてこの1年くらいは、同じように
「今行かないと、後で絶対に後悔する」
と、日向坂の現場にも初めて行くようになった

「行動力すごいよね!」
と言ってもらえたこともあるけど、おそらく元々そういうタイプではない。
今しかできないことに対して、一種の挑戦を続けてきた。

そして、やっと少し落ち着いてきたタイミングで、今回の辞令である。

チャンスを逃さないために

今回の辞令は、定期的に上長へ家庭事情を伝えてきたからであろう。
異動できるような状況ではないと判断されていれば、別の人が異動したか、そのポストへの異動そのものが白紙になる。
自分は違うタイミングで、おそらく別の事業部に異動しただろう。

「できれば、"とらんが"うちの研究部門から異動してほしい」
というこちらの研究部門の働きかけと、
「できれば、"とらんが"うちの事業部へ異動してきてほしい」
とあちらの事業部の働きかけがあったと、うっすらと聞いている。
今までの経験や連携での実績、今後のキャリアのことを考えてくださったものだと考えられるし、ありがたい限りである。

事業部に異動してからの仕事量は、一定以上は自分で抑制できるだろう。
事業部1人分のある程度の働きで抑えておき、日向坂を推す時間を作ることも可能だとは思う。
でもこの異動は、経験としても大きなチャンスである。

異動は、研究部門と事業部の公認の二重スパイのようなものである。
あくまで背番号は研究部門なので、
「打ち合わせで事業部の**部長はこう言ってましたが、本当はこういう内々の事情があるからですね」
と研究部門側に伝えたり、
「さっきの技術ですが、実際にやってるのは**グループの**さんなので、部間以外にも担当間の打ち合わせを設けちゃいましょう」
と事業部に促したり。
自分にしかできない動きにより、いくらでも双方が捗るようになる

新たな連携やプロジェクトを立ち上げるべく挑戦したい。
この機会にしかできないことである。
事業部1人分の共通業務にプラスしてのことなので、当然1.5人分や2人分くらいの業務量にはなるし、それだけの大変さがあるとは思う。
疲労困憊で土日は爆睡かもしれない。

それでも、3年間という期間の中で、たくさん挑戦をしてきたいと思う。
改めて、
「今やらなかったら、後で絶対に後悔する」
という渡邉さんの言葉や覚悟を胸に抱きながら。

祖父母のことのメインは、母にバトンタッチする。
もう1年間でしっかりとサイクルを作ってあるから大丈夫だろう。
新たな部署での仕事はチャンスを最大限活かし、全力で取り組む。
日向坂は、これからは自分にできる範囲で推していく。
悩んだ結果、そんなバランスに変えていこうと決意した。

どんな時間バランスになるかは全くわからない。
正直、
「日向坂を全力で推すために、異動してからはセーブしようかな…」
という気持ちにもなったし、迷いがゼロなわけではない。

それでも、推しメンを推していくために、推せる自分でありたい
推しメンから得た活力を、しっかりと日々の挑戦に充てたいと思う。

最後に

7月以降、どんな風に推し活をしていけるかは全くわからない。
それでも決してフェードアウトはしたくない。
少なくとも丹生さんが現役でいる限りは。

これからもたくさん、自分ができる形で応援していきたいと思う。
これからもよろしくお願いします。

とらん

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