終戦記念日に伝えたい認知症祖母の戦争の記憶の恐怖、カーテンを閉めての意味とは?

私は昨年11月末まで一人暮らしをしていた数年間を除き、祖母と同居していた。
一人暮らしからほぼ同居するきっかけになったのが母親が脳梗塞で倒れ、祖母が直前に認知症を患い誰かが介護をする必要があった。
祖母は50年程前に離婚、3 人兄弟だが2人は死亡、1人疎遠と誰も看る人がいない。
かといって、祖母が要介護1だったので施設を申し込んでも空き待ちで時間がかかる。
何より私にとって母親のような存在の祖母を施設に預けず在宅で看てあげたかった。
結局、30歳過ぎから6年間ほぼ1人で祖母を在宅介護。
その時に祖母から大東亜戦争の話をよく聞き、昔からの口癖の一つが「あんた、見えないようにきっちりカーテンを閉めてね」。
ある日、祖母に理由を聞くと実は大東亜戦争と深く関係した口癖で、認知症の進行とともになんとも残酷な光景を目の当たりにする。
「祖母の口癖は大東亜戦争と深い関係が」
祖母は必ず毎日夕方になると口癖を言い出し、夜になるとより注意深くなる。
夜に少しでもカーテンの隙間が空 いていると「あんた、そこのカーテン空いてるでしょ?ちゃんと閉めてちょうだい」と怒り気味に言う。
前から気になっていたが、あえて聞いてみたいほどでもなくなんとなく時間が経過していた。
祖母の認知症が段々進行しお金、財布、通帳の管理が難しくなったり、喫茶店へ一人で行くものの家の場所がわからなくなったり、鏡をみながら「そこにいる人は誰かいな」と頻繁に言うようになったり・・・。
それでも口癖は忘れないので、祖母に「ばあちゃん、なんで毎日のようにカーテン閉めて、閉めてって言うの?」と率直に聞いてみた。
すると、祖母は「大東亜戦争の時にお母さんがね今日は空襲がくるぞー、くるぞー、カーテンを閉めなさーいと言われたの」と答えた。
後に調べると、灯火 管制といって敵の夜間空襲や夜間砲撃目的にならないようローソク、電灯など照明が制限された。
映画『この世界の片隅で』で灯火管制のシーンが流れるのでご存じの方も多いだろう。
一般家庭では黒いカーテンをひいたり、防空用の電灯カバーをかぶせ街中は真っ暗だったそうだ。
祖母は10代の頃、大東亜戦争が終戦するまで富山に疎開していたので、習慣になっていたのだろう。
1945年8月1日から2日にかけて富山市に12740発の焼夷弾が投下され約3000人が犠牲になり、負傷者は8000人弱、焼失家屋は約30000戸。(富山大空襲)。
富山大空襲は広島・長崎の原爆に続いて被害が多かった空襲で市街地の99%が焼失した。
祖母はその時の恐怖が忘れられず、「暑い夏の時やったよ、B29がきたぞ、逃げろ、逃 げろって言われてね、裏山に逃げたんだよ。そこがたまたま爆撃を逃れられてね私は命拾いをしたんだよ」と私に教えてくれた。
「祖母が衣食住を不自由にさせたくないと言っていた意味」
祖母は富山の疎開先で「おばさんは自分の身内が一番大事だから同じご飯でも私はお茶碗半分あればいい方だったよ。たまに赤飯や魚のごちそうが出ても食べさせてもらえなかっよ」とおばさんから嫌がらせをうけていた過去を明かした。
そして、祖母は私に「おばさんがよく寝て勉強する暇があるなら田んぼに出て働きなさいって言われてね、朝早くから夜遅くまで外に出ていたよ」と話した。
加えて、祖母は私に「本当は高等学校に行ける成績だったの。でもね、おばさんがあんたみたいな他人にそんな贅沢な何 言ってるのと怒られて女学校中退したのよ」と無念さをあらわにした。
戦時中、食料が限られていたので仕方がない部分はあるとしても同じ屋根の下で同じ食べ物が食べられない、仕事は人一倍させられるなど辛い出来事が重なった。
祖母がよく「私はね衣食住の不自由はシンゴにさせたくないの」と言っていた意味を
「祖母が認知症進行しても覚えていた戦争の残酷な記憶」
それから約2年位経過したある日、私は祖母と一緒にご飯を食べているとテレビで大東亜戦争の特集番組を放送。
私が「大東亜戦争の頃疎開して大変やったんやな」と話をふると、祖母は「戦争?疎開?」と答えられなかった。
私は再度「ばあちゃん、戦争で疎開してたんやろ?」と聞くと、祖母は「あらま、そう?」と・・ ・。
戦争を忘れているようなので、「ばあちゃん、富山覚えてる?昔住んだところ」と聞いても覚えていたり覚えていなかったり記憶が曖昧に。
この頃、要介護4に上がり徘徊、異食、トイレの便器と逆向きに尿や便をする、私の事がわからなくなる、食べたことを忘れるなど認知症がかなり進行してしまっていた。
あれだけ戦争の事を毎日のように話していた祖母が、信じられない、ショック・・・。
ところが、祖母は夕方になると「あんた、カーテンきっちり閉めて」と相変わらず言う。
祖母に私が「なんで、カーテン閉めるの?」と聞いても、「いいから、早く閉めて」と・・・。
戦時中、灯火管制のため街中の灯りを消したことは覚えていないものの、この一言だけはざ在宅にいた最後の最後 まで忘れなかった。
認知症の人は最近の記憶を忘れ、昔の記憶は思い出す特徴がある。
祖母は戦争や疎開の記憶は忘れ、カーテンの事だけを覚えていた。
灯火管制で街中が暗闇に包まれ空襲に怯える日々だったり、おばさんに嫌がらせをうけた毎日が頭の片隅に残っていて戦争の残酷さを物語る。
まるで祖母が「戦争は二度と起こしてはいけない」と訴えているようにも思えた。
祖母のように幸いにも人的被害には合わなかったものの、認知症が進行してもいつまでも深く記憶に残ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。
読者のおじいちゃん、おばあちゃんで「カーテンを閉めて」と言えば、この記事を思い出してもらえると幸いだ。

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