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映画感想 シン・ゴジラ

 『シン・ゴジラ』はNetflixにはない。以前、テレビ放送していたものを録画していたのだが、いつ観よう……今だな。
 と、いうわけで急遽『シン・ゴジラ』を視聴することに。
 一応、樋口真嗣監督繋がりとして。といっても、樋口真嗣監督はあくまでも現場監督で、作品の核を握っていたのは庵野秀明。聞きかじりの話だけど、最初、樋口監督が撮ってきた素材を庵野の元に挙げたら、「絵コンテと違います。全部撮り直してください」と言われたとか。『シン・ゴジラ』の関連書籍とか諸々読んでないので、どのくらいの精度の絵コンテが作られ、どれくらい絵コンテに合わせて撮ったのかはわからないけど。
 さて、『シン・ゴジラ』だ。たったいま視聴を終えた段階なのだが……これ、もう1回見たほうがいいのかな? 話には聞いていたけど、情報量が尋常ではなく、把握できていないシーン、台詞があまりにも多い。ここまで観る側の許容量を超えてくる情報が載っている映画に遭遇したのは初めてだ(まさか、ここまでとは思わなかった)。2回、3回見て把握しきれるかどうかがわからない。
 映画内容についてだけど、すでに色んな人が色んなふうに語られすぎている映画なので、もはや私から話すことがほぼない。私に話を聞くより、何度もこの映画を観て、深く考えている人の話を聞いたほうが良いだろう。氷川竜介さんが話していたことだけど、「会議シーンは止め絵に口パク」というのは本当だった。『シン・ゴジラ』は基本的構成が「アニメ」なのだ。アニメと同じように絵コンテ、レイアウトを切り、その通りの位置に実写の俳優を置く。アニメの作り方に、素材として生身の俳優を置いたわけだ。
(庵野監督のこういう撮り方は、その以前からずっとだ。『キューティーハニー』では実写の俳優をコマごとに分解して、アニメの原画に合わせて伸ばし潰しを載せてアクションを作るという無茶なやり方を実践していた。庵野監督は特撮的な画面を作る監督なのだが、どこまでもアニメ監督なのだ)
 そこで『実写・進撃の巨人』との対比が生まれる。『実写・進撃の巨人』は特撮にこだわった作品だった。巨人は昔ながらの着ぐるみにミニチュアという撮り方。ウルトラマンのやり方で、着ぐるみ巨人の回りを標準サイズの人間が飛び回る、と考え方によっては面白い映像といえなくもなかった。
 昔ながらの特撮の最新版を目指して失敗した『実写・進撃の巨人』と、『シン・ゴジラ』。この2つの作品に横たわる断層は大きい。『シン・ゴジラ』は特撮をやめて、CGを使い、より「アニメ」に接近させた(『実写・進撃』もエフェクトの載せ方とか、完全にアニメだったが)。
 石原さとみとマフィア梶田(やっぱり笑っちゃうよね。そのシーンにいる誰よりも存在感がある)の2人組は完全にアニメキャラクターだった。石原さとみに至っては、庵野アニメのヒロインだ。
 演技面について。私は以前から、日本映画は演技のさせ方が間違っているのではないか、と考えていた。日本の俳優は演技が下手……と言われているが、そうではなく、作劇そのものに間違えがあるんじゃないか。それで、1つ仮説を考えていたのだが、『シン・ゴジラ』はそれをすでに実践させていた。(この仮説はあえてブログに書かなかった。というのも私はそういった方面の当事者ではなく、仮説としてもあまりにもふわふわしていて、書くようなものではないと考えていたからだ)
 『シン・ゴジラ』の凄まじいところは情報量の凄さ。カットが次々と流れていき、台詞が次々と流れていく。さっき言った台詞がどういう意味だったのか、観る側に考える暇すら与えない。あの尺の中でのカット数、ワード数は今まで私の知る映画の中でも一番じゃないか、というくらいだった。
 それで、俳優側に一切の演技的エゴを与えない。台詞を言うのが精一杯状態で、俳優の演技をさせない。という以前に、映画に物語・演技的余白が一切ない。だから俳優は、ほぼ「止め絵に口パク」状態で、その場に立ち、台詞を言うだけ。
 これがすごくはまっていた。演技を観ていても鼻につくことはない。演技をさせないことによって、演技に違和感がなくなっている。
 私が考えていた「間違い」とは、日本の映像世界の芝居は、アメリカのドラマから学んだから、日本的な背景、日本人の顔と合わない。日本人がやるには、台詞にしても所作にしてもオーバーすぎるんじゃないか。そこで考えていたのは、2つ。1つは俳優に一切クローズアップしない。2つ、実写もアニメのように撮る。『シン・ゴジラ』は後者の方を実践して、成功していた。日本はやはり「アニメの国」。アニメの方法で実写も撮っていく。このやり方で考えていったほうが良いかも知れない。下手な演技をさせるくらいなら、止め絵に口パク。なんなら、芝居は声優で吹き替えてしまったほうがいい。
 『シン・ゴジラ』は『アニメ・GODZILLA』と同じく、ゴジラ討伐タクティクスがほぼ映画の全体を占めている。だがその描き方はまるっきり違う。『シン・ゴジラ』のほうがはるかに意外性があったし、弱点を追い掘り下げていく過程に真実味が感じられた。
 『シン・ゴジラ』を観ながらちょっと気になったけど、樋口監督の『日本沈没』に似たようなシーンがちらほら。でもやっぱりぜんぜん違う。『アニメ・GODZILLA』にしても、樋口監督にしても、庵野秀明という1人の巨人の前にはかなわない……というもの凄い存在感を感じる映画だった。
 樋口監督は『実写・進撃』で大きく評価を落とした監督だが、特撮の演出は間違いなく日本一の腕前。エヴァンゲリオンのアクションシーンも樋口監督が作った。アクションの演出は間違いなくいい腕を持っているのだ。だが、庵野秀明はさらにその上を行っている……という実例を観てしまった感じだ。
 映画の最後、ゴジラの尻尾から何か……。話には聞いていたけど、使徒か……。『シン・ゴジラ』から『エヴァンゲリオン』へと繋がり、さらに完結編『シン・エヴァ』に繋がる。……のか?
 『シン・ゴジラ』は本当に『エヴァ・ゼロ』だったのだろうか……?

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こちらの記事は私のブログからの転載です。元記事はこちら→http://blog.livedoor.jp/toratugumitwitter/archives/51617094.html

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