1月1日 佐藤達男×鳥嶋和彦対談が面白かったので、紹介とついでの感想。

電ファミニコゲーマー:【佐藤辰男×鳥嶋和彦対談】いかにしてKADOKAWAはいまの姿になったか──ライトノベルの定義は「思春期の少年少女がみずから手に取る、彼らの言葉で書かれたいちばん面白いと思えるもの」【「ゲームの企画書」特別編】

 かなり長~い対談だけど、非常に面白い。素晴らしい人生哲学と、見過ごせない情報が一杯載った対談。時間を掛けてでも読んでおきたい。

 では私個人的に気になったところをピックアップ。

〈引用〉

鳥嶋氏:
 『ジャンプ』について補足すると、佐藤さんの指摘は正しいんです。『ONE PIECE』は、初めて初版が本誌部数を上回る単行本となった。『ジャンプ』が300万部のときに、300万部を超えるコンテンツが育った。そうなった要因はいくつかあって。
 まずひとつは『ドラゴンボール』や『幽遊白書』が終わり、長らく読んでいた読者が離れたこと。そして「戻らなくていいや」となった。
 読者は一度離れたら戻らない。単行本で好きなものだけ読めばよくなるから。
 単行本が前より売れるようになったもうひとつの要因は、それまでにいなかった女性が読者に入ってきたから。
佐藤氏:
 女性は雑誌から入らないんだよね。アニメから入る。
鳥嶋氏:
 そう。アニメから入って単行本を買うから、雑誌のほかのタイトルを読まない。だから誌面が作品主義になっていく。
 もうひとつ要因としてあったのは、コンビニの存在。
 コンビニが増えたことで四六時中雑誌を買えるようになり、コンビニとしては外側に向けて並べることによって、ついでに缶コーヒーを買わせたりなどキャッチを作れるようになった。
 でもそれは同時に書店で買わなくなり始めたということでもある。それから駅のスタンドでも買わなくなり始めた。こうして既存ルートの流通が崩れていった結果、「マンガをもう読まなくてもいい」ということが起き、雑誌の時代が終わっていくんだ。

 『スラムダンク』『幽遊白書』『るろうに剣心』『ドラゴンボール』……あとあまり挙げる人もいないけど『みどりのマキバオー』。こういう作品が終わった後、しばらくこれに継ぐ作品が出てこなくて、この出てこなかった期間がまずかったな……。間もなく『ワンピース』と『NARUTO』が出てくるんだけども。
 一度流れが途切れると、取り戻すのは難しい。『ワンピース』が始まった頃は知っていると言えば知っているけども、同時期にやっていたジャンプ漫画ぜんぜん知らないもの。すでに雑誌としての存在感は薄くなっていた……。
 今やジャンプで何をやっているか全く知らない。ちょっと前に『こち亀』最終話の切っ掛けに久し振りにジャンプ買ってみたけれども、知っている作品がまったくなかったし、しかも途中から入れる作品も全くなかった。どれも長編ストーリーもので。可愛い女の子が出てくる漫画は読んだけど。ああいうのはあらすじも設定も知らなくても読めるから(あと女の子の裸が出てくるから)。
 長編もの過多の状況も、漫画雑誌が「面」ではなく「点」になる悪現象を作っている。雑誌で読んでも長編ものはよくわからないもの……。単行本で読もうか、ってなる。

 ジャンプアニメの視聴者に女性が常に一定層いるということは昔から言われている話ではあった。『聖闘士星矢』とか女性ファンが一杯いた作品だけども、でも大多数の読者は男性で、男性が読むものと認識されていたと思う(瞬と氷河のキスシーンとかありましたけれども)。
 いま感覚で言えば『聖闘士星矢』も女性向け、女性の読者に向けて作られるのだろうか? リバイバル版が出るみたいな話もあるけれども、どっちの層を意識して作られるのだろう。……男性向けであって欲しい。
 女性向けのゲームとか、今となっては大量にコンテンツが溢れているけれども、出始めた当初というのは、コンテンツが少ないからそれこそ「出せば売れる」状況もあって、「女性向けのゲームを作るんだ!」みたいな流れもあったけれども。
 しかし確かに女性ファンって、「本当に自分の好きなもの」、しか目線を向けない。イベントでも自分の推しではない人に対しては歓声すら上げないと言うし。
 少年誌の女性向けコンテンツ……はあってもいいとは思うけれども、しかしそこにしか目が行かない状況、雑誌が面ではなく点になる状況が進んでしまうと、少し考えものかも知れない。
(排除したらしたで、今の社会状況だと「性差別だ」という話が出てしまうんじゃいか……という心配が)

〈引用〉

──製作委員会についてはどうお考えですか? いまはその作りかたがメインですよね。
鳥嶋氏:
 製作委員会方式がなぜメインになるかというと、それだとたいして強くない作品でも出したお金に応じたリターンがあり、リスクが減るから番組が成立しやすいんだよ。だから本来そんなにテレビアニメを作っちゃいけないはずなのに乱立することになる(笑)。
──部外者の感覚で言うと、集英社が『ジャンプ』を、つまり原作を持っているから最強に見えるんですが、じつは「不利な戦いを年々強いられていまに至る」というのが、いまの話から解りやすく見えてきます。
鳥嶋氏:
 それを解決する方法って、たったひとつなんだよ。全著作権を出版社が持てばいい。これがアメリカ型。マーベルやDCコミックス、ディズニーは全部持っている。作家に権利はなく、会社が持っているんだよね。だからたとえば『ドラゴンボール』の権利をAという会社が持っているとき、このAをまるごと買収すれば、『ドラゴンボール』の権利は動くわけ。これがアメリカの権利の動きかた。でも日本とヨーロッパは、著作権があくまで個人に帰属するから、こうならないんだよね。

 製作委員会方式には裏表の面は当然あるわけで、もしも委員会方式を採らず、作品(商品)がまったく売れなかったら……。元請け会社倒産、関わった人に給料が支払われず(アニメ制作者にも当然お金は支払われず)、ビデオの権利もどこかに消えてその後パッケージ化されず……。
 と、いう話をわりと近いところで聞いたことがありましてね。わりと人気作で、当時見ていた人が思い出話みたいに語られる作品があるのだけど、その作品が今においてもDVD化すらされていない(何の作品について話しているか、具体的に言えないけども)。なぜそうなるのかというと製作が一社のみだったらしく、関連商品が売れず放送中にも関わらず倒産・解散して、どうも作品の権利もどっかいっちゃったみたいな感じらしく。
(単に、権利はあるけれども、失敗作品だから誰も手を出さないだけかも知れない)
 製作委員会方式のいいところは、こういう大ダメージを防ぐことができること。大コケしてもリスクを分散しているから、大惨事にはならないし、ちゃんとDVD・ブルーレイは最後まで出る。アニメ会社に給料は出る。
 でも製作委員会は現場のことなんて知ったこっちゃないし、興味もないから、現場がどんなブラックに陥っているか知らない人がわりといるらしい。もしかするとできあがる作品のクオリティもチェックしていない可能性すらある。
 アニメーターの数には限りがあるのだから、本数を減らして1本1本のクオリティを上げたほうがいい。……とアニメファンはみんな思っていることだけど、製作委員会はそんなの知らねぇで、現場のキャパシティを無視した仕事を投げてくる。
(アニメの本数は今の半分か、3分の1くらいでいい。今は無駄な弾数が多すぎる)
 製作委員会はもしもの時の大惨事を防ぐけれども、現場を無視する。製作委員会を浄化できれば、状況もよくなる……とは思うけれども。製作委員会なんて、お空の上の人だからなぁ。

 ブライアン・シンガー監督の『X-MEN』が公開されたのは2000年頃か……。その当時ってハリウッドもいろいろ難しい時期で制作費はどんどん大きくなるし、かといって収益がそこまで大きくできるわけではないし、色んな制作会社がバタバタ倒れていた頃だった。
 そんな時に現れたのがマーベルコミック。実はマーベルコミックもコミックが売れず、曲がり角の時期だった。当時のプロデューサーが、マーベルコミックのコンテンツを使って映画にする。キャラクター、ストーリーを資産として活用する、という方法を見出した。ちょうどCG技術がいい感じに育ち始め、コミックの荒唐無稽な世界観を映像にできるタイミングだった。
(マーベル映画は今や世界中で大ヒット、マーベルヒーローは世界中で知られる存在になったけども、実はマーベルコミックはさほど売れているわけじゃないそうで……。前に聞いたけど、せいぜい世界で数万部くらい……という話だったかな。日本の漫画のほうがはるかに売れている。マーベルは映画で立ち直ったけれども、映画とコミックで乖離が生まれたまんま。日本のように、単行本としてまとめて安価で売る、という手法を確立できていなかったことがこの状況を作っちゃったのかな?)
 そのマーベルも、最終的にはディズニーが買収(ついでにディズニーはFOXも買収)。ディズニーが全部おいしくいただいちゃった。
(このまま行くと、数十年後のハリウッド映画はどの映画にも最初にシンデレラ城が出てくるかも知れない)
 アメリカは特殊なところがあって、「作品は誰のもの?」というのがよくわからなくなることがある。映画の作者は監督? それともプロデューサー?
 昔の話だけど、ウォルト・ディズニーは『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』という作品を制作していたのだけど、この作品、途中で製作側と揉めてしまい、ウォルトは現場を追い出され、後半は別の人が制作している。ウォルトが企画原案から制作していたけれども、作品の権利は最初から別の人が持っていた。
 ハリウッドにおける映画監督はあくまでの「現場監督」であって、権利を持っている人はプロデューサー。プロデューサーが権限を持って、監督や俳優を選んだりする。リドリー・スコットは『グラディエーター』でアカデミー賞作品賞を獲得して「オスカー監督」と呼ばれるようになったけれども、実はリドリー・スコットはオスカー像を手にしていない。オスカー像を獲得したのはプロデューサー。
 終わった作品、止まっていた作品も、プロデューサーが権利を買えば動く。『スターウォーズ』も6作品で終わりだったものがディズニーが買収したことによって「続き」が動き始めた。
 いいところはあるけどね。『スターウォーズ』がまたシリーズ再開したことも良かったこと。でも現場を指揮した最大の功労者である監督に権利がない。「作品」と「人格」が乖離している。金で権利を買えるから、『スパイダーマン』は今に至るもちょい面倒くさい立ち位置になっている。
 ダメなことは、作品に対する理解も愛着も全くない人でも権利を買えちゃう。ローランド・エメリッヒ版『GODZILLA』がそうだし、話が進んでは消える『AKIRA』も同じく。ハリウッド版『AKIRA』がどうして話が出ては消えるを繰り返し続けているかというと、プロデューサーに理解がなく「主人公は白人で、舞台はアメリカ。ネオマンハッタンで」。監督側は「いやいや主人公は日本人、舞台も日本でやるべきだ」で対立して……ってなる。これがずっと続いている。
(『AKIRA』は伝説的な作品なので、ハリウッドの映画監督でも『AKIRA』を崇拝している人は多い。一方のプロデューサーはそこまでの愛着を持っていない)

〈引用〉

──代理店が個人視聴率を言い始めたのは、いつごろのタイミングなんですか?
鳥嶋氏:
 言い始めは……たぶんアニメの『ドラゴンボール』(1986年)が始まる前後あたりじゃないかな。導入はもうちょっと後、1990年代半ばかな。テレビ関係者から、「F1」や「F2」という個人視聴率の用語を聞くようになったのがそのころだから。
 視聴率って、昔はビデオリサーチとニールセンの2社が出していたんだ。僕らは彼らに高いお金を払い、FAXで送られる情報を見て、裏番組まで含めた視聴率をチェックしていた。
 「ニールセンのほうが数字が高めに出る」とか、「こっちだとビデオリサーチのほうが」みたいな話もあったりしてね。だけどその個人視聴率の導入後、いつのまにかニールセンが業績不振で潰れたんだよ。
 みんな知らないだろうけど、ビデオリサーチの筆頭株主は電通なんだよね。電通が営業でニールセンを追い込んだわけだ。
 その結果、視聴率は一社からしか出なくなり、子会社で出した視聴率を、親会社が企業に持っていって話を持ちかけ、テレビ局とのあいだを繋いで枠を買わせる。これがどういうことか。恐ろしいでしょ?(笑)

 怖いね。ぜんぶ電通がコントロールしているんだ。今のテレビって、電通の嗜好が全面化しちゃってるんだ(だから自分のコントロールが効かないネットを嫌っているわけだ)。しかも、電通の想定では子供と老人が排除されている……たぶん、お金を落とさないからじゃないかなーという気がするが。
 それで、結局のところ若者もテレビを見なくなってしまった。老人と子供を排除したつもりが、老人と子供もしか見なくなり、その老人と子供も「テレビが面白くない」って言い始めて……が今の状況。
 数字で見るんじゃなくて、コンテンツそのものを作らなくちゃいけなかったのだけど、テレビが怠ったのはこれ。もはやコンテンツを作る力……という以前にテレビプロデューサーに企画書の読み方がわからない人がいる、という時点で末期を越えて終わってる。企画を作る以前の問題。コンテンツが大事なメディアなのに、物作りできない人ばかり集めたらダメだよ。

 今は一見すると、「消費者のニーズ」が細かく分析されて、多用化する個人に向けたコンテンツが作られて実にハッピー……みたいに思えて、全体の売り上げはどんどん落ちている。
 と、いう話はアダルトビデオの世界で起きている……みたいな話は聞いたことがあって。いま、FANZAでアダルトビッグデーターみたいなものが構築されていて、AV監督が企画を持ち込んでも話すら聞いてくれない。FANZAにあるデータがこうで、今こういう傾向のものが売れているから、それを作れって。
 それでアダルト業界の売れ行きは増大したのかというとその逆。どんどん売り上げが落ちているという。
 多用化する個人1人1人に目を向けてコンテンツが作られる時代。……だけども、でも本当に個人は多用化しているのだろうか? という疑問もあって。同時代を生きている限り、共有するものはたくさんあるでしょうに。アニメだったら前期、みんな『グリッドマン』見て盛り上がってたじゃない。「みんなが見ているもの」でまとまる瞬間はあるはず。みんな最先端のアニメを見て、最先端のゲームで遊んで、最先端の映画を見て、最先端のものを語りたがる。「グリットマン好き」という人も「グリッドマン嫌い」という人も。みんなその時代の最先端のものを語りたい。最先端のものを作らないでどうするんだ。(10年前のゲームを引っ張り出して「回りがどう言うおうが知らん。俺はこれで遊ぶ」……という人はきっといるだろうけど、大多数の人は「最先端」のものを共有したいと思うはず)
 小さな個人を意識すればするほどに、大きな「大衆」を見過ごす。コンテンツ作る側としては、大きな「大衆」という意識を失ったから、祭りも失った。大きな大衆を動かそうとしないと、そりゃ全体の売り上げも伸びないだろう。

〈引用〉

佐藤氏:
 その話で言うと、じつは言いたいことがひとつあるんです。
 いま流行りの“なろう系”【※】小説のことを書いた本に、「なぜ売れているか」の理由が載っていて、そこに書かれていた「ネットなら自由に小説が書ける」、「読者の反応がビビッドに返ってくる」など、理由がすべて「かつて自分たちがライトノベルを作ったときに感じていたこと」だったんですよ。
 つまりいまのライトノベルが既成化しているということだよね。かつてライトノベルの強みだったものが、いまはネット系小説に負けているのだとすれば、これは問題が大きいなと思っているんだ。

 あーそうか。
 「自分でも頑張れがぎりぎり手が届きそう」……っていう気がするものね“なろう系”は。
 昔のジャンプ作家は絵が下手だった……というのは確かにそうだった……。ジャンプ作家は、というかイラストレーターのレベルもさほど高くなかった。
 昔のアニメ雑誌や漫画雑誌とか開くと、さほどうまくもない人がプロとして絵描きをやっていたりするから。もちろん、昔から上手い人はいて、そういう人は今でもトップランナーとしてイラストレーターはやっていたりするけども、そういう人は本当少なかった。漫画家も昔はさほど絵が上手くなかったいうか、そこまで絵の上手い人がなる職業でもなかった。もちろん昔から上手い人はいて、そういう人は今でも業界トップランナーとして尊敬されているけど、そういう人達の話ではなく。忘れられていったものすごく多くの漫画家やイラストレーターの話。
 いまジャンプを買うと何にビビるって、みんな絵が滅茶苦茶うまいこと。ジャンプ漫画ってこんなにレベル高かったかな……と思うくらい。
 イラストレーターも、今はアマチュアでもレベルが高すぎなくらい高い。この人うまいなー……って思ってたらまだ未成年だった。そういうの、一杯ある。若い人はみんなうますぎなくらいうまくなっている。
 でもぎりぎり手が届きそうなレベルのものって、意外に大事で子供は案外そういうものが好きだったりする。プロが作ったものよりも、近所のお兄ちゃんが描いたものとか。
 ニコニコ動画のコンテンツなんか、そういう流れだったものね。豪華でもテクニカルでもない。その辺の人が手作りで作ったものの中からヒットが生まれていた。そういうのもがおかしくて愉快だから、みんな盛り上がっていた。『鉄ちゃんの仮装大賞』が持っていたノリに近い。
 そういうニコニコ動画でやってた連中はみんなYouTubeに流れていったけれども。
 ああいったものが、10代や20代にとって、「自分のものだ」という気がするんじゃないかな。「自分の成長物語」の1つとして組み込まれて、成長していく。
 でも「いつのまにか自分たちを正当化して、キレイにものを作ろう」……葛藤があるな。目指しているのは最初からそこだったから。美しく、テクニカルになっていくと、10代や20代にとって、自分とは遠いもののように感じられる。美しすぎるものは、入口にならない。今やライトノベルですら、若い人にとってはちょっと敷居が高いくらいのレベルになちゃったのかも知れない。

 “なろう系”の物語の脆弱さは、今までにも書いてきた通り。「これ本当に一次創作と言えるのだろうか?」というくらいのオリジナリティの弱さ。どこかで見たものを貼り合わせて、物語らしきものを作っているだけに過ぎないんだもの。「異世界転生もの」って、“創作”じゃなくて“ツクール”でしょ
 その物語も“考証”という概念がないから。『二度目の人生を異世界で』って作品は読んでないけどあらすじを読んでびっくりしたもの。こんなもん、書籍化するなよって。アニメ化しようとして国際問題になり、アニメ化中止、書籍も出荷停止になったけれども、この一件で、編集の目利きも死んでるって確信できてしまった。普通、あんな作品ではプロになれない。これまでの出版界で存在するはずのないトンデモ小説が18巻まで出ていたということが衝撃だった。
 “なろう系”はオリジナル作品としての脆弱さがあるから、アニメ化したときに目も当てられない物になる。“なろう系”のアニメ化は、やめたほうがいいんじゃないか……と進言したくなるくらい。
 でも……子供は好きかも知れない。子供は“お馴染み”のものが見たがる。立派でなくても、小さな物語を追いかけるのを好む。そういうものを、自分の体内の物語に変換して、キャラクターと共に歩もうとする。むしろオリジナリティや独創性は邪魔だったのかも知れない。そういう独創性や技術がなかったからこそ、“なろう系”がいま注目されているのかも知れない。
 納得はしたけども、“なろう系”のアニメ化にはこれからも反対していくよ。みんな痛い目見るから、やめたほうがいいってね。

〈引用〉

鳥嶋氏:
 雑誌が失ったもののひとつは、メディアとしての特性だと思う。いまはマンガ誌にマンガは載っているけど、マンガ自体に発信力がない。結果、雑誌としての発信力もない。
 以前だったら、そんなに選択肢があったわけでもないから、たとえば『ドラゴンボール』があったとき、子どもたちのあいだで「今週の見た?」と話題になった。キャラクターの動静や物語の進行が、いまの大人でいうとワイドショーのネタみたいに話題になっていたんだよね。

 私は時々ブログに書くことだけど、漫画やアニメやゲームはコミュニケーションツールだ。誰かと会話したり、出会う切っ掛けを作ったり。アニメやゲームの本質って、実はそこにあるんじゃないか……と思っている。
 でもそれが今やアニメもゲームも「お一人様」のものとして進化しすぎてしまった。アニメやゲームを好む人って、「お一人様」イメージが付いているし(「友達は別売りです」……みたいな言葉とかね)、作品も1人でやるものとして特化しすぎている。
 ゲーム批評とかになると、ゲームそのものの話になる……それは当たり前なのだけど、抜けているなと思うのはその時、回りがどんな顔をしているか。私は昔のゲームについて思い出すとき、一緒に遊んだ友達、友達の笑顔がセットになって思い出す。
 あいつの家に集まったよな、とか、あのゲームで喧嘩したよなとか。1人用のアクションゲームをみんなでやったり、RPGの攻略を電話で聞いて回ったりとか。佐野君が桃鉄の女湯のシーンをずーっとブラウン管に映していて、消そうとしても画面に焼き付いてしまってえらい目に遭ったとか。
 その佐野君は数年前、心臓発作でお亡くなりになった。
 同時代でその作品を追いかけている、物語を追いかけている人がいる。その感情を共有すること。そうやって物語も子供も成長する。現代で失われたのは、そういう感覚だよ。コンテンツに大きな「大衆」がない。むしろアニメやゲームを好きな人が、そういう繋がりを否定しようとすらしている
 ゲーム実況なんかがいいなと思うのは、そういうゲームをやっている人をみて、みんなで共有できること。ニコニコ動画なら、わーわー言って共有できる。ゲーム体験をみんなで共有する。という体験を、ゲーム実況がある程度取り戻してくれている感はある。
 ニコニコ動画でやってた連中はみんなYouTubeにいきやがりましたけれども。そんなに再生数がほしいか! ニコニコ動画も、配信者を留める工夫をずっとしなかったのが悪いけど。
 もしかしたらeスポーツが体験を共有する感覚を取り戻してくれるかも知れない。eスポーツ自体、どう発展していくか、いまだによくわからないけど。
 コンテンツの作り手は、「多用化する個人1人1人のニーズに合わせて」ではなく、大きな「大衆」を目指して物作りをしなくてはならない……という時期に来ているのかも知れない。みんなで物語を共有しようぜ、という流れをどこかで取り戻したいものだ。

 漫画やアニメやゲームが売れなくなる理由、今回の話に取り上げられてなくて、重要と思える案件を1つあげておこう。
 消費税である。
 漫画やアニメやゲームのお客さんは中流階級である。セレブに売っているアートではない。ごく普通の人達に向けたエンターテインメントだ。消費税はそういった中流階層からお金を取る制度のことである。“庶民税”なんて呼び方もあるそうだが、普段漫画やゲームを買っている人達からお金を取る制度だ。
 日本は分厚い中流階級の層があったから、漫画やアニメやゲームのビジネスがうまくいっていた。今うまくいかなくなったのは中流がまるごと貧乏になったから。
 漫画やアニメやゲームといったものは、見てもお腹が膨れるわけではない。生活が苦しくなると、真っ先に切り捨てられる。消費税が上がると、ダメージを食らうのがこの業界だ。
 今年、消費税は予定では10%に上がることになっている。今の状況からたかが2%程度……と思うなかれ。影響は絶対に大きい。食料品もダメージを食らうだろうし、優先度の低い漫画はもっとダメージを食らう。新品で漫画を買いたいというユーザーはより減って、海賊版に流れる可能性だって出る。
 消費増税に反対! もっというと、消費税制度自体を一度撤廃すべきだろう。漫画の業界も消費増税に反対する流れを作ったっていいと思うのだが……。

 ところで本題から逸れるが、KADOKAWAについて一言。
 どうにも今のKADOKAWAは作り手の心も受け手の心もわかっていない節がある。
 『けものフレンズ』の監督変更の件だけども、『けものフレンズ』はたつき監督という人がいて、そのたつき監督を通して物語を読む……ということをみんなやっていた。物語と作り手が一体となって、共に歩もうという意識が受け手側にはあった。そこでたつき監督降板をやってしまった。そりゃどう考えても炎上するだろって話だ。でも今のKADOKAWAはそれがわからない。
 誰も見向きもしなかった『けものフレンズ』が実は“売れるコンテンツ”だとわかって、“低予算アニメの監督”であるたつき監督を下ろして、もっとリッチな予算で実績のあるところに作らせよう……という意向だろう。「作り手が誰かとかどうでもいい。キャラクターの絵をリッチにして展開も大きくすればもっと売れるんでしょ」と考えたのだろう(それで、結果として『けものフレンズ2』は売れるんだと思う。理由は2つあって、1つは「大抵のユーザーは監督が誰であるかとか知らない」、もう1つは『けものフレンズ』が売れるコンテンツになったので、前回よりも商業体勢をがっちり固めてくるだろうから)。
 作り手の気持ちもユーザーの気持ちもわかなくなってしまったKADOKAWA。明らかに物作りの気持ちがわからない人が上に立とうとしている。コンテンツを作る企業として、どうなのか……というのが今の懸念だ。

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とらつぐみ

ブログ2

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