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学ぶことへの執着は生への執着

こんにちは、虎塚です。これは日記です。今年はときどき文章を書いて、日常や考えたことを残していきたいと思っています。

最後に記事を更新したのは3年以上前でした。カナダで永住権を取った後、大学で再び学ぼうと考えて、高校科目の単位を集めていた頃でした。現在は、当時思い描いていたとおり、BC州の大学でフルタイムの学生をしています。

普段は鍵をかけたTwitterで、課題や試験の泣き言を言いながら暮らしています。泣き言を言ってはいますが、学生生活を心から楽しんでいて、得難い体験をしていると感じています。アカウントに鍵をかけているのは自衛のためです。日本語の世界にときどきいる、年のいった学生に対して攻撃的な人たちに吊し上げられることなく、ひっそりと暮らしたいからです。

年末にツイッターを眺めていたところ、まさに、老いた人が大学へ行って若い人の学問の機会や先生の時間を奪うのは、犯罪といってもよい悪である、という強い言葉が流れてきました。書籍から引用した言葉だそうです。

実はこれは、私自身が自分に対してよくかけていた言葉に近いものでした。こういった考えを私は強く内面化していて、平均的な学生と比べて人生の残り時間が短い自分を、いつも意識しています。

限られた資源を分配してもらうだけの価値が自分にあるだろうか。いや、ない。申し訳ございません……と、大学の入学許可を得た時も、授業を受ける時も、先生に質問をしに行く時も、うっすらと後ろめたい気持ちを持っていました。

この「年のいった人間は社会に還元する時間がないから学んでも無駄」論は、単位時間あたりの社会貢献度のようなものを仮に測定できるとして、それが全員一律であるという仮定がないと成り立たないので、いい加減な話だと理屈で考えればわかります。でも感情面では、私にとって痛いところを突かれた気分になる言葉でした。

しかし、人の言葉を通してこの考えを目にした時に、なんという寒々しい考え方だろうと思いました。その上、余計なお世話です。

元の文章の意図は、自分が学びたいというエゴによって、老人が若い人の邪魔をするのはよくない、というものだそうです。大学教育を受けることを望むのは、エゴでしょう。しかし、それを否定する権利を誰が持てるでしょうか。

学ぶことへの執着は、生への執着に通底するものがあります。死んだらどうせ消えるのに、それでも知りたいのです。

前述のツイートには多くの賛同が寄せられていました。大人は通信制の教育を受ければよい、という人がいました。そう思う人は通信で学べばよいと思います。でも、対面の授業を望む人が萎縮しなくていいでしょう。中高年でも大学院へ行くのはよい、という人もいました。そう思う人は院へ行けばよいと思います。でも、学部に入りたい人が萎縮しなくていいでしょう。

こういった個人的な線引きで他人の行動を非難するのは、過干渉です。実際的な話として、学生に入学許可を出すのは大学のAdmissionなので、赤の他人の意見には意味がありません。

私は人が持つ自由を制限しようとする言葉が嫌いです。自粛せよという圧力も嫌いです。干渉される筋合いがない。だから、他人の欲望についてとやかく言おうとするこの言説にも忌避感を持ったのだと思います。

Twitterで流れてきた言葉への反発によって、自らが長年囚われていた余計な規範意識を退けることに、突如成功してしまいました。

大学教育は個人の物の見方を変革する力を持っていると思います。教育を受けて、私自身も日々様々な意味で変化していると実感しています。

2024年も、教育からなにかを受け取れる状態でありたいと願っています。

追記:ヘッダ画像はChatGPTに生成してもらいました。

Here is the image, an abstract representation of university education being accessible to people of all ages. It symbolizes the inclusivity and opportunity of education, showing a diverse group of individuals from young to elderly, studying together in a university environment. The setting is collaborative and welcoming, embodying the concept that education is a lifelong journey open to everyone.

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