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ハンセン病資料館の展示をみて


 ハンセン病資料館を訪れるのは二度目だった.ちょうど一年前の今頃,職場の先輩に勧められて行ったのが一度目.
 当時はハンセン病に関する予備知識を全く何も持たなかったため,常設展示のひとつひとつすべてが初めて知ることだった.疾患の情報は言わずもがな,何より人間の差別を生む心について,考えさせられたものだった.今では人々の諦めと飽き飽きとした気持ちがそこら中の空気に溶け込んでいるコロナ渦であるが,昨年は今よりはまだ新鮮な気持ちで向き合えたものであり,コロナ患者・家族,医療従事者への差別に対しても考える機会になった.帰り道に見た「あん」という映画も考えさせられるものであり,さらにヒューマンドラマとしても良かった.


 さて,今回は,企画展「生活のデザイン」を目的に再訪した

 "ハンセン病療養所における自助具,義肢,補装具とその使い手たち"

というパンフレットの文言を見て義肢装具士である自分にはとても魅力的な展示であると確信し,うだつの上がらない近況のヒントになるかもという淡い期待も抱きつつすぐに来館予約をした.

余談だが,常設展示で前回見切れなかった情報を拾うことができたのも,今回の発見だった.資料館などで一度の来訪でインプットできる情報には限りがある.ましてや,歴史的に意味のある事実においては決して愉快でないものも多く,知るだけで体力を使う.今後,資料館を訪れるときには可能な限り2回以上の訪問を意識しようと思った.


 企画展は,一室を使い,ハンセン病の当事者の方々の使用していた様々な自助具・義肢装具とともに詩や文章が展示されていた.ハンセン病の症状として,神経麻痺による下垂手や下垂足および続発する変形,知覚麻痺によって主に足底から生じる病変やそれらの状態悪化が生む切断,眼周辺の神経麻痺に起因する失明,などがある.症状が多岐に渡るために展示されている自助具も義肢装具も多くの用途に対応したものであった.それらは,なにより「生活のための」ものだった.筆舌に尽くしがたくポスターの文言を借りるしかないのだが,とにかく「生活」を続けるための意思というのか,生きていくことの当然さの事実,とでもいえばいいのか.思っていたよりドラマティックではなく,思っていたよりずっとずっと深く静かで切実で尊いと感じた.(生きていくことの当然さと表現したが,語弊を生む表現ではある.当事者である方々の心情をはかることなどできやしないのに,例えばいっとう深い傷を負い暗い絶望を負わされた方に対してどんな意図があろうと「当然」などという言葉で語っていい事柄などないのかもしれない.本当に浅はかな表現だが感じたものを記す言葉としてほかに適切なものを現状持たないことが申し訳ない.)

 義肢装具士の仕事では,身体に不自由がある方と義肢や装具を介して関わる.そのときにどれだけ目の前の患者さんや義肢装具のユーザーさんの生活まで想像できているかと問われると,全く十分と胸を張れるものではないと常日頃戒めている.生活することは生きていくことだが,生きること=生活ではない.得てして生活への思いや拘りは個人によって様々であり,すべてを完璧に知ってこちらがものを作ることは不可能である.ただし,患者が負わされたその身でその不自由をもって生活を送ることの当然さを,軽んじてはいけない.自分が今回の企画展で「もの」を見て感じた,「不自由さと共存することの当たり前さ」に対して,当人が受け入れて,工夫して,さらにまた受け入れていく過程とその連なりを,ずっと軽んじることなく意識としてできる限り近づこうともがくことが,「もの」によってある意味不自由であることの当然さを負わせる職業人としての作法なのかなと思った.


 生活,と繰り返してきたが,展示で知るハンセン病患者さんたちの生活には,役割を負い仕事をすることも含まれていた.義足についてもそれを用いて立って踏ん張りを効かせて仕事をするのである(展示で,仕事と表現されていたかは記憶が定かではない.別の表現だったかもしれない…).特に,療養施設に患者を治療したり介助したりするスタッフが就く以前では,療養施設内では患者のみでほとんどあらゆる役割を担っていた.こうした当時の状況を知ったあとで見た,展示の一環として放映されていた当事者の方のインタビュー内容に目を奪われたものがある.その方は,自らは片足に義足を履き,療養所内では義肢工作を担当したのち,革製品の職人として勤められたそうである.また,片手には麻痺による変形が残っていた.そんななか職人として働く際のエピソードに交えてちびた裁革刀が画面に映された.それに得も言われぬ衝撃を受けた.この方は辛苦なんてもはやおくびにも出さない.職人だからと道具を使い手入れをして職務に向き合う,もちろん手の不自由さも足の不自由も解消しないままで.私が今書きたいのは,自分は身体的な不自由さはないのだから裁革刀の手入れくらいもっと頑張ろうとか,そういうことではない.他人と自分との比較はごく限定的にしか正当化できないし,自分が健常であることを前提に置く比較は大概ろくでもない.職人ってすごいなとか(職人はすごいとはいつも思っているが)そういうことでもない.何というか,自分のことしか見えなくなることがしばしばあるなかで,他人のことをさぼらず知って想像していたいと強烈に思ったのである.

最後に,展示室のなかの数々の詩や文章が,今回最も「読めて良かった」「知れて良かった」と感じたものである.そのなかの一節を残したいと思う.(なお著作権的にアウトだったらのちほど消す)

 "新しい足袋を義足にはかせゐて見栄とは別のことを思へり"

ものも言葉も,とても多くの情報を持っており,それらを真摯に受け止め自分にできる限り想像することが過去への向き合い方だと思っている.
想像するきっかけをもたらす展示にとても感謝している.