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Lesson 1

その年の大晦日、私はニュージーランドで旅の準備をしていた。南半球の季節は、ちょうど春から夏に差しかかる爽やかな気候だった。

語学学校で出会ったほとんどの友人達は、ニューイヤーを家族と迎えるため、それぞれの国へ帰省してしまっていた。
ソニーに勤めるイラン人のシェアメイト、ノーシャドから「特に予定がないなら、北端の最果ての地に行って日の出をみないか」と誘われ、応じることにした。

彼の車は、最近購入したばかりの中古のトヨタだった。
急ブレーキに急ハンドルを連発する彼の運転に、私は気分が悪くなっていた。
山道に入るとますます危なげな運転で、ヒヤヒヤしながらじっと耐えていたが、とうとう私はこう言った。

「私が運転してもいいかな」

彼は快く応じてくれたが、それがそもそもの間違いだった。
メタルロードと言われる砂利道の曲がりくねったカーブに慣れず、やはり運転を変わってほしいと言おうとした矢先だった。

前から物凄いスピードで対向車が坂を降りてきて、私は咄嗟に急ブレーキを踏んだ。タイヤは砂利にスピンして、そのまま丘に激突し、その反動で車は横転し、またどこかに激突したのか激しい衝撃を感じた。

「…い、き、てる?」

それが横転した車の中で辛うじて出た言葉だった。

「…うん、君は?」

「生きてる…」

私たちはそのままの姿勢で抱き合った。頭は真っ白で何をどうすればいいかも分からないまま、お互いの無事を喜んだ。シートベルトをしていなかったら即死だっただろう。

崖すれすれに留まっていた車の壊れたドアから、なんとか這い出し、見事なばかりにフロントガラスが割れ、バンパーが無残に路面に転がっているのを呆然と見つめた。

「さすがにもう乗れないね」

そこは、ニュージーランドの北端、最果ての地。もちろん携帯が通じるはずもない。

私たちは長距離トラック、フランス人女性が運転するバン、それからマオリの運転する乗用車をヒッチハイクで乗り継いでオークランドに戻ってきた。

残された車は電波が通じる途中の街で、レッカーを頼んだ。年が明けてから、4000NZドルの修理費がかかると連絡があった。

「弁償…するよ」

彼の車は、他人の運転で起こした事故を保障する保険に入っていなかった。ノーシャドは、申し訳なさそうに、半額だけでも出してほしい、と言った。

ニュージーランドにワーキングホリデーで来て、語学学校の短期プログラムを終了して以来、まだ一つも仕事が見つかっていなかった。

一人暮らしが経済的に厳しいからシェアハウスにしたのに…と悔いたが、そこは自分のせいなのだから仕方がない。
2000NZドルでもその時の私にとったら痛い出費だった。

親には甘えたくない、なんとかして仕事を見つけなければ、と絶望的な気持ちで考えた。

翌週から私は新聞で求人募集を見つけると至る所に電話をかけた。ホテルのフロント、ブティックやスーパーの店員、ベビーシッターetc。

ある日系ホテルにおいては、キウイ訛りの英語を話す女性に「あなたの語学力では、ちょっと」と電話越しにはっきり断られた。
なんとか韓国人の経営する中華料理店でのホール勤務の職を得たものの、1週間であまりの客の少なさに人件費削減と首を切られた。

これでもかと痛めつけられて精神がぼろぼろになった時、語学学校の先生に誘われてクリスチャンのキャンプに参加することにした。

とにかくポカリと空いた時間と心の穴を何かで埋めたかった。

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