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天寿を全うした死

100歳を迎えた祖母。私自身が祖母との思い出が多いのは育ての親としての存在だったから。私は沖縄で生まれ育ち、16歳で沖縄を離れたので、過去の記憶がなかったのですが、沖縄に戻るきっかけとなった事で祖母との関係性を知りました。そんな私と祖母の繋がりを綴りたいと思います。

産休がほとんどない時代で働く母親

私の母親は教職員で、当時、大学卒業後の本採用の教職員資格は厳しかったといいます。沖縄でも離島で教職員を経験すると1年で本採用。本島での就職だと5年の経験がないと本採用にならなかったと話してました。本島に住む母親はすぐに教職員として働きたかったので南大東島という離島での就職を選択したと話してました。大学時代に付き合っていた父親とはすぐに結婚し、離島での職場を選択した母親はすぐに遠距離生活になったといいます。

現在の南大東島は下記のような場所です。

当時の南大東島は、食料も本島から船で運んできたり、飲料水も井戸水をくんでこないとないような時代だったようです。母親は結婚して就職先が南大東島の中、私を出産しました。その当時の産休は3か月。出産1か月をまず休み、出産して2か月で仕事復帰という時代だったようです。私は生後2か月で近所の方に預けられ、母親は教職の仕事をしていました。

子育てしながら、仕事をしている母親の生活に祖母は気の毒に思い、生後6か月の私を本島で引き取り、育ててくれたようです。それから母親よりも祖母が実母だと思っていた私。私は祖母が住んでいる近くの小学校へ通い、学校行事の授業参観や運動会、遠足のお弁当などはすべて祖母がしてくれました。私の幼い記憶の中でも母親よりも祖母の存在は大きいものでした。

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祖父13回忌の当日の夢話

その祖母の旦那様である祖父は97歳で他界しました。2021年の4月20日で13回忌を迎え、その日の朝、100歳になる祖母が早朝に夢を見た話しをしてくれました。「今朝ね、私が棺桶に入る夢をみたさー。子供達が1人ずつ花を一輪もっていて、私が一人ひとりに感謝の言葉を伝えていたの。でもね、不思議だったのが、私の棺桶が丸かったのよ、だからなんでかねーって思ったさー」と。その日の13回忌を無事終えた夜。祖母は心不全で救急車で運ばれました。

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入院中の祖母は眠りにつく

心不全で倒れた祖母は2週間入院することになりました。しかし、祖母は入院中、全く起きずに寝ていた様子。主治医からついに看取るという選択を言い渡されたようです。病院では1週間での退院。それから私達は祖母に会えるのを楽しみに、退院の日を待ってました。沖縄に住んでいない妹達にも連絡をして駆けつけてくれました。

祖母の復活

入院中、全く目を開けなかった祖母が復活したと母親から連絡がありました。祖母が目を開けて私達に何か答えてくれました。もう、何を話しているのはわからなかったけれど、意思表示がみられる姿。そこからあっという間の5日間。看取るという時間を過ごしました。

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看取るという事

日本では家族を看取るという経験を持つ方は少ないといわれてます。
8割以上の人が病院で亡くなることが常識で
自宅で亡くなられる方は1割程度と言われてます。
そんな中、
最期とは、枯れるように逝くこと
 死も人の大切な営みの一つ。

体は、どうすれば楽に逝けるのかを知っていて、まるで草や木と同じ。
枯れるように逝くことだと知りました。

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毎日、実家に足を運び、祖母に話しかけたり、
寝泊まりしながら、過ごした日。
覚悟しながら、過ごした数日。
天寿を全うした死
ついにお別れを迎える日も、祖母は孫たちに囲まれた時間の中、息をひきとりました。

祖母の思いやりと気遣いを感じて

祖母は5月2日の17時過ぎに静かに息をひきとりました。まるで植物のように枯れるような感覚で。。私が2日の朝、祖母に会いに行った日、静かに寝ている姿でしたがとても肌が奇麗で、どんどん新生児のような生まれたての姿に変化しているような感覚でした。祖母が亡くなってから家族に連絡がいき、孫である私達が祖母が大好きだった素敵なドレスと化粧をしてあげました。最後までおしゃれを忘れない祖母だったから孫である私達でネイルをして、そしてメイクが上手な従妹のお姉さんに祖母が愛用していた化粧品を使ってとても奇麗な姿で看取る事ができました。

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告別式は3日後

この内容は自分の中で残していたい記事として綴っています。最後までお付き合いいただきありがとうございました。


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