ミーコと物語 4-14:夜明け間際の、渾身の接吻

4-14

 ぐーぐー眠っている血まみれのH先生をほったらかして外へ出た途端、低劣で破廉恥で騒々しい閃光が、ほとんど忘我状態の母娘を襲いました。緑の森やAの真赤な車やそのへんの石ころや草花やが明るく照らし出された一瞬、反射的に目を閉じ両腕で顔面をガードしながら思い浮かべた言葉は「フライデー」。二人とも、涙に濡れた顔を無防備に晒してしまいました。
 芸能界の荒波に揉まれながら、日々カメラを向けられフラッシュを浴びてきたミーコは、視覚が回復するのも待たずに勇ましく走り出しました。そこまではよかったのですが、山間の静寂をかき乱して響く盗撮者の靴音がふいに途切れたかと思うとゴツン。頭を素晴らしい勢いで何かにぶつけて転倒してしまいました。
 一方のAはさすが落ち着いたもので、閃光の余韻が消え暗闇に眼が馴れるまでの数秒間をじっと動かず待ってから、前方の観察を始めました。遠く、夜明けの予感を微かに漂わせ始めた灰色の空と、相変わらず黒々とした山陵の線、そしてその下方、コンクリートで舗装された車道が森の奥へ折れ曲がって見えなくなるあたりに、頭を抱えて踞る人影が二つ――ミーコと盗撮者らしき人物、そしてその傍らに転がった黒い塊――カメラ? どうやら、逃げかけて何故か立ち止まった盗撮者と全速力で走り始めたミーコとがぶつかって、二人とも衝撃で転んでしまった模様。

 Aは用心にと懐に忍ばせてきた飛び出しナイフを手に二人の元に駆け寄り、まずは高価そうなごついカメラを拾い上げて思いきり道路に叩きつけました。精密機器が完全に壊れる音を聞いて、「あっひい!」などと無様な悲鳴をあげた盗撮者(中年男、バンダナ、小太り)の股間にナイフを突きつけ、丁寧に、静かに、ゆっくり、凄みました。
「あなたのここもぶち壊されたくなかったら黙りなさい」
 これが効果覿面でした。二対一とはいえ、相手は一応は腕と足を二本ずつ備えた変態男。本気で暴れればナイフなんてすぐに取り上げられたかもしれないし、非力な女性二人を振りきって森へ逃げこむこともできたでしょう。しかし、Aの神がかったハッタリは、瞬時に男の精神を制圧したのでした。
「あなた、名前は?」
「E、です」
「なぜここを知っているの」
「ここに来れば、ミーコの写真撮れるからって言われて、あのでも別に僕は」
「誰から言われたの」
「あ、わからないんです、ぅあひぃぃ(ナイフの先端を股間にググッと押し付けられて)本当なんだ知らないんだって全然!芸能関係者だって言ってて極秘情報だって、うさんくさくてマジかよって疑ったけど本当だったらすげえって思ってあわあ本当だってば!なあカメラもうぶっ壊れてんだしいいだろうもうあれ高かったのに!あひあひやめっやめっちょっ!ねえほんと信じてくださいお願いします!単なるアイドルオタクなんです僕!ミーコの大ファンなんです!ほらこれファンクラブ会員証ほら会員ナンバー315(ミ・イ・コ)!この番号とるのがどんだけたいへんだったか知ってるか知らねえだろうがちくしょう!ほらTシャツだってほら!ほらあよ見やがれちくしょう」
 男は叫びながら上着を乱暴に脱ぎ捨てました。汗でぐっしょり湿ったTシャツには、赤字で大きく「I LOVE MIKO」の文字。あかん、こらほんまもんや、とAは思いました。
「ミーコ!なんとか言ってくれよミーコ!ほらEだよE!デビュー前から君のこと知ってたんだ!ずっと待ってたんだ運命だったんだ。君が五歳の時にFに君の存在を聞いてから君がテレビに出てくるのを待ってたんだ。わかる?わかるだろ僕のこと?お誕生日オメデトウ!いつもいつもライブでもサイン会でも何度も目え合ったもんね、さっきだって必死で追ってきてくれた、だから思わず立ち止まっちゃってぶつかってごめん、そうです僕ですEってんです、ミーコだけが生き甲斐です。あーもう暗くてわかんないのかなあほら、もっと近くにほらほらほらほら」
 半狂乱になったEはナイフもAも忘れ、路傍にちょこんと腰かけて何か考え事をしているらしいミーコの方へ勝手に這い寄っていきましたが、Aはあえて手出しせず、いつでもその背中をグサリといける体勢で様子を見守りました。気迫と偽りの狂気による空疎な脅しは、当の相手がとち狂っていてはなんの効力も発揮できないのです。
「ミーコ!ミーコおおお!びいいぐおお」
 ものすごい叫び声でしたが、ミーコはなんの反応も示さず座ったまま空を見つめておりました。
 声が大きすぎる!いくら山の中とはいえこのまま放置したら危険だ。やるなら今のうち、やらなければ――と、Aが微かに震える手でナイフの柄を堅く握り直したその時、ミーコが、まるで天使に生命を吹き込まれた彫像のように動き出しました。助けを求めて伸ばされたEの手を取って我が身に引き寄せ、そのまま太くて丸い肩に両腕を回し抱擁。さらには、母親譲りのか細い両手で硬直した頬を柔らかく挟み込んでほぐしてやってから、ガッサガサの唇にそうっと口づけました。
 途端にEの肉体はぐなんぐなんに弛んで崩れ落ち、紫色の唇は潤いを取り戻し真赤に濡れ光り、見開かれた両目から涙がとめどなく流れ、薄明かるくなりつつある空には無数の星がまたたき、凍てついたコンクリートに這いつくばりながら彼は人生で初めて思ったのでした――生きてて、よかった。
 Aは、息を飲んでその光景を見守り続けました。もう先も短くなった夜はもとの静寂を取り戻し、ひとりミーコの囁き声だけが冷たい空気を震わせて響きました。
「ミーコはあなたを覚えています。いつもミーコを見つめ、いつもミーコを思い、いつもミーコを応援してくれたあなたを、ミーコは覚えていますとも。その節はどうもありがとう。そしてこれからもどうぞよろしく。といってもミーコは実は――これはあなただけに告白するのですが――まもなく失踪します。わけは聞かないで。けっして追わないで。今夜のことはあなたの胸のなかだけの秘密の思い出にして」
 ミーコの言葉が、自分の体内にわだかまり続けてきた惨めさや悲しさをひとつひとつ浄化してくれる。そんな風にEには思えたのでした。残りの一生をかけて、この素晴らしい奇跡の夜に報いようと、彼は誓いました。
「さようなら、ミーコ。どうか気をつけて。あいつは、――S、と名乗っていたよ――僕があの屋敷に行かないのならば、代わりはいくらでもいるのだと言っていた。その後で、そもそも別の誰かに行かせるまでもない、粗末でいいなら話なんていくらでもつくれる、などとも呟いた。意味わかんないけど恐ろしかった。ミーコ、どうか、くれぐれも気をつけて」
「ありがとう、E。さようなら。あなたも気をつけて、どんな天気でも」

 こうしてミーコとAは、無事帰路に就いたのでした。車中、疲れきった二人はほとんど口を開く気力もなく、しかし今生の別れを目前に控えた母娘は喋らないわけにはいきませんでした。前方遠く、都心の高層ビル街の向こうから白っぽい朝日が昇り始め、すれ違う車の数も増えてきた頃になってようやく、力のない、無理に押し出されたようなAの笑い声が気まずい沈黙を破りました。
「ミーコ、さっきはなかなか思い切ったことしたね」
「あーもう言わないで、ああするしかなかったでしょ、あのおデブちゃんイカれちゃってたもの」
「サイン会やなんかで見たことはあったの?彼のこと」
「まさか。全然見覚えなかった。ていうかみんなおんなじにしか見えないし」
「あはは、いずれにしろあれは英断だった。たぶん、あれでかなりの時間を稼いだはずよ」
「時間?」
「そう、これから、あなたが少しでも遠くへ行くための、時間。たぶんね。でも忘れちゃいけないのは、まあわかってると思うけど、あれであなたはあのおデブちゃんをあなたの物語に本格的に巻き込んだってこと」
「わかってる。こうして背中の荷物がどんどん重くなっていくんだね、人って。でも――」
「なに?」
「さっきあの人が這い寄ってくるのを眺めながらね、初めてじっくり考えてみて、恐ろしくなったの。ミーコたちを邪魔だと思う誰かがいて、その誰かが万能だとして、どうしてミーコたちはあっさり殺されないの。どうしてミーコたちは試みることができるの。どうしてDおじちゃんに会えたの」
「何事にもルールというものがあるのよ。そういうことだと思う。もちろん、あなたが敵に回したのは自由にルールを破ることができる「なにか」、あるいはルールそのものであるような「なにか」なんだろうけど、でもそれにだって限度はあるはず。限度を越え過ぎれば、必ずなんらかの不都合が生じてしまうはず。それはたぶんとても面倒なことなんでしょう」
「不都合、面倒、そんな程度なのね」
「私たちはね、ミーコ、単なる蟻んこなんだよ。そのことをあらためて肝に銘じておいて。蟻んこに分があるとすれば、小さすぎて空からは見つかりにくいってことだけ。わかった?」
 ミーコは頷いて外を眺めました。なにもわからないなりに、Aは本当に鋭い。でも今ならミーコにはわかるのですが、私たちは実際には「単なるアリンコ」以下の存在であって、「なにか」にとっては私たちが何をしようとちっとも不都合でも面倒でもないのです。だって、それも含めた、そういうこれはお話なんだから。
「もうすぐお別れね」
「うん」
 あたりはもうすっかり明るくなって、世界はいそいそと動き始めていました。

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松本トリ

『ミーコと物語』第4章 ミーコ(27歳)はこういった。

いつかどこかで、27歳のミーコが語った物語。全16節。
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