ミーコと物語 3-6:Dの死

3-6

 不運にも階段から転げ落ちるはめになった時、死の直前にDの脳裏をかすめた思い出はたったひとつだった。走馬灯が駆け巡るにはいくらなんでも段数が少なすぎた。どう転がればこんなところで死ねるのか、というので他殺説まで囁かれたが、現場に残されたあらゆる痕跡が、彼が単に一人で転げ落ちたという事実を示していた。あえて「犯人」を挙げるとすれば、階段手前に吐き散らされたゲロくらいのものだ。ゲロに罪はないが、これがまるで人の足を滑らせるために吐かれたかのようなゲロであったことは確かである。大部分は褐色の半流動体で、とにかく水っぽさの加減と粘り具合が絶妙だった。さらにこのゲロには細長い糸状のつるつるした固形物が多数混じっており、おそらくは吐き主がろくに噛みもせず啜り込んだ何らかの麺類が、ほぼ原型を保ったまま未消化で逆流したものと思われるが、これが靴底の滑走を相当に勢いづけたであろうことは想像に難くない。そういうわけで、Dはわずか七段の階段で実現し得る最悪の転がり落ち方で転がり落ち、階下のコンクリートに頭蓋骨を強打して即死した。
 右足が滑って跳ね上がった瞬間、Dの脳内スクリーンにまず大映しになったのは、勢いよく教室の引き戸を開けて「おっはよう!」と叫ぶ少年時代の彼自身の顔面だった。次の瞬間、その顔は驚きの悲鳴とともに画面からかき消えカットが換わり、ゲロに転んだゲロまみれの少年がゲロの上で泣き喚く。教師が宥めようと駆け寄るが、少年の頭部から血が流れているのを発見し、慌てて人を呼びに行く。ピーポーピーポー、と真赤な回転灯。
 そう、彼が死の直前に思い浮かべたのは、ゲロによる転倒にまつわるものだったのだ。ゲロからゲロへの、想起というよりもこれは単なる連想といった方が適当だろう。
 階段で足を滑らせてからどたまかち割るまでの間は一瞬だったが、死に際の時間引き伸ばし現象はそれなりに起こったため、たったひとつの連想に過ぎなかったとはいえDはこの数十年前の小学生のときの情景を鮮明に思い浮かべることができた。当時の屈辱感や頭部の鈍痛、朝っぱらから教室の入口にゲロを吐いたクラスメイトへの恨み、漂う悪臭、ゲロでべちゃべちゃになった衣服の感触も蘇った。「おっはよう!」などと元気よく叫んだ直後に泣きわめいているのが恥ずかしかった。ゲロの臭いが身体中に染みついてしまうのではないかと恐ろしかった。明日から「ゲロ」とあだ名がつくのではないかと不安でたまらなかった。

「かわいそうに」

 スローモーションで階段を転がり落ちながら、Dは少年時代の自分を憐れんでそう呟きすらした。現場に飛び散ったゲロには、この時こぼれた涙が一滴混じっていたはずだが、そのことに気づいた者は誰一人いなかった。

 もしもう少し階段が長ければ、彼はきっと道子について何事か想っていたに違いない。かわいらしい姪っ子だけが彼の人生の希望であり、生き甲斐だった。しかし階段はたったの七段で、思い出せたのはゲロのことだけ。それでぜんぶおしまい。合掌。

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松本トリ

『ミーコと物語』第3章 自分丼

Cの少年時代とAB夫妻の人生、Dの死をめぐるいろいろ。全13節。
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