ミーコと物語 5-F:あのモンスターが僕らをすぐ食べる

 灰色の廊下を歩いて行った。その長さと暗さと冷たさは、まるで素人芝居の演出みたいに嘘っぽかった。突き当たりの鉄扉には案の定強化ガラスの小窓。この汚れ具合がまたわざとらしい。医師は扉の前で向き直り、私に最後の忠告を与えた。
「彼は、自分が物語のなかの登場人物だと信じ込んでいるんです。くれぐれもその妄想をかき乱すような真似はしないでいただきたい。いま彼はとても重要な時期に差しかかっている。ついこの間までは、むしろ静かな患者だったのです。少なくとも、暴れて保護室へ放り込まれるようなタイプではなかった」
「その〝ついこの間〟にいったい何があったんです」
「人が訪ねてきました。Sとかいう男でしたが、記帳を確認しましょうか。捜査に関係ありますかね」
「いえ、まあ彼から直接聞きましょう」
「とにかくいまは人と話をするには時期が悪すぎるんです。Fさん、担当医としては面会などお断りしたいくらいだったんですよ、何か特別な理由がなければね」
 そう言って、恨みがましそうに、妬ましそうにじろっとこちらを見やる。こちらが院長にかけた圧力のことを匂わせたいのだろう。なんとありふれた話だろうか。
「P先生、どうかご心配なく。ささいな質問をいくつか並べて、後は彼の話をじっくり聞くだけですから」
「もし彼が話せる状態なら、そうなさるといい」
「では、失礼いたします」
 私は一人で保護室に入り、後ろ手に扉を閉めた。薄汚れた煎餅布団が敷かれたパイプベッド、汚物にまみれた便器、灰色の壁、灰色の天井、そして鉄格子の嵌まった窓。
「ステレオタイプ。うんざりするほど安易でチープ。そう思わないか、E」
 私は、灰色の床に寝転んでいる哀れな旧友に向かって、吐き捨てるように言った。Eはゆっくりと起き上がり、パイプベッドの端に腰をおろした。
「久しぶりだな、F」
「ああ、まさかこんな形でまた顔を合わせることになるなんてな」
「覚えてるか、二人で最後に飲んだ時のこと。君はまだ新米の警官で」
「おまえは今も昔も頭のいかれたオタクってわけだ。あの時約束したっけな、アイドルが殺されたら真先におまえを逮捕するって」
「ああ」
「多少、筋書きが変わったよ。おまえは三日後、この病院を脱走する。同じ日に、あるアイドルグループの一人が行方不明となる」
「十年前の、ミーコのように、か」
「そうだ。そして一週間後、そのアイドルの変死体がどこかのどぶ川で発見され、別の場所で、おまえは――」
「これだろ?」
 Eは、首に縄をかけてギュッと絞るしぐさを、白目を剥き舌を出して真似てみせた。
「その通り。アイドル殺傷事件の犯人、首を吊って自殺、というわけだ」
「うむむむ」
 これで、ここでの私の仕事はおしまいだ。伝えるべきことを伝え、立ち去る。それだけ。しかし、背を向けてノブを捻りかけたところでEが興味深いことを言った。
「ついこの間、Sが訪ねてきたことは君はもちろん知っているんだろうが、あれはまるで人間のようだったぞ」
 私はつい、立ち止まって振り返った。
「は?」
「人間の形をしている、という意味ではなくて、言うこと為すこと全部が人間っぽくなっていたんだ。だいぶ前に会った時のような落ち着きも冷たさもまったく影を潜めていた。おまけに右眼からダラダラ血を流していた。奴の体に赤い血が流れていたなんてな。信じられるか?」
「なにが言いたいんだ」
「何かがあったんじゃないのか。君も本当は感づいているはずだ。僕は、本当は、ミーコを殺すための端役としてこの病院に閉じ込められ、生かされてきたんじゃないのか。何らかの理由でその役がボツになった。とはいえ僕をこのままにはしておけないから、別の適当な仕事をさせてお払い箱にする、てな感じか。今回のこれはだから、いわば無用の公共事業みたいなもんなんじゃないか。なあそんな気がしないか、公安さんよ」
 振り返りも答えもせず、私は扉を開け、外に出、そして扉を閉めた。また嘘くさい長い廊下を足早に歩き去った。
「おーい」
 Eが、いかにも狂人めいた笑い混じりに叫ぶ。
「お前はいったい誰のために何を守ってんだーコーアンさーん!!!」
 叫び声と、保護室の分厚い扉を拳で叩く音が響いた。知るか。私はさっさと終わらせたいだけなのだ、このわけのわからない芝居を。私はおまえに伝えるべきことを伝えにきただけなのだ。それはもう済んだ。あとは何週間かしてから、しかるべく指示を出して部下にとどこおりなくおまえの首吊り死体を発見させるだけだ。さっさとその仕事を片付けて、ぜんぶ忘れてしまいたいのだ。余計なことは何も知りたくないし考えたくもない。もしも自分の背中から上空に幾本もの糸が伸びているとして、操り人形はそのことを知りたいはずがないではないか。知ってもどうにもならないのだから。

*見出しの出典:岡村靖幸「パラシュートガール」

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松本トリ

『ミーコと物語』第5章 ネギ・グレイテストヒッツ

細切れの終章、「私」は誰にでもなれる。全10節、10人分のエピローグ。
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