ミーコと物語 3-5:ペコリーノ・ロマーノの命日

3-5

 Dは妹の夫であるBと同席するときまって不機嫌な態度をとり、嫌味と皮肉で武装した。Bはしかし、そのことで深く思い悩んではいなかった。Dのことは苦手だが、会うたびにおなかがいたくなったり胸が苦しくなったりするほどではない。別に痛いところを突かれるわけでもないので、腹も立たないし言い返したくもならない。まあそういうもんなんだろう、それならそれで仕方ない、というのがBの偽らざる気持ちだった。Dに対してだけそうなのではなく、Bは他人とのやり取りにそもそも苦痛を感じるということがほとんどなかった。そのかわり喜びも少なく、いってしまえば感情の振れ幅が少ないということになり、特に子どもの頃はしゃべっても書いても演じても歌っても「心がこもっていない」と周囲からよく言われたものだった。当然、これまでBの態度にあからさまな苛立ちを表明する相手はたくさんいたが、なかでも群を抜いているのがDで、時に自分の感情を大きく揺り動かす例外的存在のAがその妹であるという事実を思うと、Bはなぜか少し笑ってしまうのだった。
 ひとことでいえば、「相性が悪い」ということに尽きるのだろう。何か決定的な奈落のようなものがBとDの間には広がっていて、それが双方向性の安全で冗長なやり取りを妨げているのだ。奈落の底に何があるのかは一切不明。わからないものは怖い。Dの皮肉や嫌味は、いわばこの奈落に松明を投げ込んでいるようなものなのかもしれない。あるいは二人してはりきって松明を投げつけ合えば、火傷の危険はあるとしても、少しでも闇の奥を照らすことができるのかもしれない。しかしBは火の焚き方を知らなかった。また、彼はそこが奈落ならば崖っぷちに近づかなければいいではないか、という考え方の持ち主だった。結果、Dは一人焦って唾を飛ばすことになる。どんなに辛辣な言葉をキメたつもりでも、それがまったくBに通じないので、さらに一人苛立ちをつのらせつつ唾を飛ばす。その繰り返しだった。
 この二人にAを加えて食卓につかせれば、自動的に幕が開く。噛み合わない会話、狂ったリズム、張り棄てられる幾筋もの伏線、騒々しい沈黙、唐突な幕切れ。同じパターンとルールにしたがって展開する、毎回似たり寄ったりの不条理劇。見ようによっては、意味も意識も取っ払った超現実的な反復実験のようでもある。

 初回からそうだった。舞台は都心のとあるビストロ。自分たちの出逢いの場でもある馴染みの小じんまりとした店で、AはBを兄に紹介した。「夫となる人を紹介したい」と言われた時点では、Dはその知らせを素直に喜んだ。経済面でも生活面でも兄らしいことは何ひとつしてこなかったが、さすがに妹の結婚相手と式場で初めて相まみえるというのは兄としてどうかと思ったし、あの小娘がいったいどんな男を選んだのか、という好奇心もあった。
「のんびり適当な人だから、かえって兄さんみたいな神経質な人と気が合うかもね。ちなみに彼、実用書とかの出版社の営業やってるの」
 しかしいざ顔を付き合わせてみると、DはBとの間に底知れぬ奈落を見出してしまった。お互いに簡単な紹介を済ませてからアラカルトで数品注文し(ここねえ、ピザがすっごくおいしいよ石窯で焼いているから/へー)、アペリティーヴォのスプマンテで乾杯しながらこの店でのA・Bの出逢いについて話し(僕がワインの入ったグラスを倒しましてね、隣りのテーブルにいた女性のスカートに小さな染みをつけてしまったんですよ/それが私だったってわけ/ほー)、プロシュット・クルードやクロスティーニネーリなどのアンティパストをつまみながら些細な共通点を探りあって失敗し(兄さんなんなのその袋、またそんなに本買ったの?/ああ、近かったし時間あったから神保町でね/あ、神保町なら僕も書店営業で行きますよ、三省堂とか/いいね、ついでに古本屋に寄れるな/あーでもなんか敷居高そうで、実は古本屋って入ったことないんですよ/あー)、プリモ・ピアットにアマトリチャーナ・ブカティーニとホワイトアスパラガスのニョッキを三人でシェアする頃には、Dはほとんど黙り込んでいた。容貌や声が気にくわないというわけではない。義理の弟との付き合いなんて、趣味や考え方が違えば違うほどむしろ距離がとりやすくてやりいいと思っていたくらいだから、そういうことが原因なのでもない。定職につかず、悠々自適とは言いがたい独身生活を送っている身の僻み、というほどにはBの稼ぎはDのそれに比べて多くもなさそうだった。彼にはBを嫌う理由をうまく説明できないのである。好き嫌いに特定の理由なんてものはそもそもない、というのが本当なのかもしれない。とにかく、Dはセコンド・ピアットに採ったカレイとアサリのアクアパッツァを黙々と食べながら、自分がBのことを嫌いであると自覚し、そのことは二本目のワインを選ぶAとBにもはっきり伝わっていた。Bはこの時から「それなら仕方ない」と落ち着いたもので、障らぬ神に祟りなしを貫いて対決を避け続けるが、その姿勢こそがさらにDの苛立ちを増幅させることになるという点については、すでに述べたとおり。
 最初のうち、AはBD間の奈落を飛び越える伝令兼通訳として奔走した。作戦は単純明快、とにかく二人を褒め殺すというものだった。
「この間Bが担当したあの本、なんだっけ英語リスニングの。そうそうあれ売上すごかったんでしょう。中吊り広告にもけっこう載ったよね」
「あれ何年前だったっけ?兄さん実は小説書いててね、え、もう七年も前なんだ。文芸誌の新人賞で芥川賞の一歩手前みたいな賞なんだよねあれって。そのなんとかいう賞で最終選考まで残ったんだよ。たしか二千通とか応募あったなかの五作品?惜しかったよね。その時の受賞者誰だと思う?なんとH。そう、名前聞いたことあるでしょ」
 Aはのんきな夫と気難しい兄とを握手させるべくがんばったが、当然これは虚しい試みに終わった。そういうことではないのだった。もはや返事どころか相槌すらろくに打ちもしない兄に向かって「いい加減にして」と少々声を荒げてしまった時には、会食も終盤に差し掛かり、三人はドルチェを選んでいた。Dはメニューを眺めながら「あ、ごめん何?ずっと黙祷してて聞いてなかった」などと答えた。Aは呆れて絶句したが、Bは大真面目だった。
「えっ黙祷?何かあったんですか?」
「命日なんだ」
「いったいどなたの」
「ペコリーノ・ロマーノ」
「ペ、ペコ? あ、映画監督か何かですか」
「まあね、とにかく彼は偉大だった」
 AとBがペコリーノ・ロマーノの名を発見するのは、半年後にこの店を再訪した時のことである。メニューの注記を信頼するならば、ペコリーノ・ロマーノは世界最古の羊乳チーズで、その歴史は遥かローマ時代にまで遡るという。その時にはすでに超現実的不条理劇の初回を笑って思い出せる夫婦だったが、劇中の三人はほろ苦いアッフォガート・アル・カッフェを完璧な沈黙に包まれつつ平らげて、舞台に幕を降ろしたのだった。

 そんな「ワースト・コンタクト」から数年が経ち、Bが〈グランベリーブリッジ〉を見上げながらDを待っている今の時点では、三人の関係性を少しだけ良好なものにしてくれる道子はまだこの世に誕生していない。小雨が降り始めた。かすかな、立ち止まって空を見上げなければ気づかないような雨。Bは左手の〈フレッシュベリーマーケット〉の方から、頭や服をしきりに手で叩きながら歩いてくるDの姿を目に留めた。
「やっとミスター・ペコリーノのお出ましか。しかしはて、何やってんだろうあれは」
 雨に気づかないBは、水滴を払い落とすDの挙動を、こともあろうに自分に見せるためのおどけたダンスだと勘違いしてしまった。どう反応すればよいのかわからず、とにかく薄笑いにならないよう注意してニヤニヤ顔を作ってみたが、Dは自身の神経症気味な性質を馬鹿にされたと思い込んで憮然とした。
「悪いな、遅れて。久しぶりだったから、こんなに遠いってことを忘れていてね」
「お久しぶりです、はるばるようこそ」
「どうだいこの賑わい。今日はおまつりか何か?」
「いやあモールの他には何にもない町ですよ、本当」
「いやいや、君たち夫妻は興味深いところに住んでいるよ、まったくね」
「どうも、住めば都、ですからええ」
 そんな会話を交わしながら、二人は「また今日も幕が開いたか」と思う。Aもすぐに加わることだろう。食卓の準備は万全である。

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松本トリ

『ミーコと物語』第3章 自分丼

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