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山崎怜奈さんについて書きたかったこと

1.道なき道

山崎怜奈
1997年5月21日東京都江戸川区生まれ
2013年、乃木坂46の2期生として加入
2013~2015年  研究生
2015年、正規メンバーに昇格
2016年、慶応義塾大学に進学
2020年、大学を卒業
2020年、TOKYO FMにて乃木坂46初の昼帯ラジオ番組『山崎怜奈の誰かに話したかったこと。』が放送開始
2021年、『錆びたコンパス』で初のアンダーセンターを経験
2022年、乃木坂46を卒業

2018年頃までの私の山崎怜奈という人に対する印象は
『絵が上手く、握手会が上手く、慶應大学に入った変わった子』
という印象だった。その頃はあまりSHOWROOMにも関心がなかったし、アンダーメンバー中心の番組も見ることは少なかったように思う。
強いていうなら、『風船は生きている』のフロントメンバーということと、『ライブ神』で眼光が鋭いという印象は持っている程度だった。

研究生から昇格するとすぐに学業による休業に入った彼女。
2015年夏に放送されたドラマ『初森ベマーズ』にも当時在籍していたメンバーの中で唯一、出演していない。主題歌『太陽ノック』を引っさげて、生駒里奈さんが吼えた伝説の神宮ライブにも姿はなかった。
それでも大学進学を決め、13thシングルから活動再開、学業とアイドル活動の並行という多忙な日々を過ごす。
大学に進まれた諸氏なら理解できるだろうが、暇だと言われる日本の大学生でも1年目は割と勉学に勤しまなければならない。彼女も乃木坂46が必須としている握手会やライブなどの活動を除けば、2016年は舞台『じょしらく弐』に出演。演技への志向の強い井上小百合さんの”旧友”というのもあって、てっきり演技方面へと進むものだと思っていた。

が、そこには1期生の高い壁があった。
白石麻衣さん、西野七瀬さん、齋藤飛鳥さんらセンターの人材は映像の仕事中心、犬メンー生駒さん、伊藤万理華さん、斉藤優里さん、桜井玲香さん、松村沙友理さん、若月佑美さんーに加え能條愛未さん、樋口日奈さんらは舞台の仕事中心に活動していった。そもそも井上さん自体が演技力を高く評価された人材なのだから始末が負えない。
現在も各方面で活躍する俳優陣が燦然と輝いていた。
割って入るのは伊藤純奈さんや鈴木絢音さんなど限られたメンバーで、いくら子役出身とはいえ、最近まで勉学に勤しむ必要があった山崎さんが演技力を身につける時間はほぼなかったのであろう。

そんな彼女がどうやって自分の仕事を切り開いていったのか。
いろいろな角度から考えてみたい。

2.好奇心の磁石

転機はクイズ番組『Qさま』だったのだろうか。
2018年、彼女は学歴を注目されてか、ゲストとして呼ばれることになる。
その当時の写真を見れば、きっちり整えられたショートカットが印象的で、後に明かされることになるが、就職活動をしているところだったのではないかと思う。
活動継続か卒業か迷っていたというのは本心だろう。
3期生の台頭は明らかで、自分の居場所については誰しも考えるところだ。
現在アナウンサーとして活躍する市來玲奈さんや斎藤ちはるさんに相談していた形跡があるし、2期生にはOL兼業で活動していた新内眞衣さんもいた。

「マシュー・ペリー」

流石の私も東インド艦隊司令長官のペリーは知っていたが、そのファーストネームがマシューというのは彼女に教えられた。
何があるか分からない。その一言で彼女は度々番組に呼ばれることになる。この頃から徐々に歴史関係の仕事が増え、彼女も居場所を見つけていく。
2019年、『歴史のじかん』でネット番組ながらMCを任される。大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男先生など並み居る歴史家の方を相手に丁寧な進行をしていた。学んできた教養や言葉が活かされてきたのだろう。

彼女自身が大好きであるラジオの方面でも、2018年に『金つぶ』のアシスタントMC、2019年に『推しの1コマ』と徐々にお仕事を拡大していった。そして、2020年TOKYOFM『山崎怜奈の誰かに話したかったこと』に抜擢。お昼の帯ラジオに様々なゲストを迎え、「アイドル」というより「ラジオパーソナリティ」としての力を見込まれた起用は唯一無二の個性といえるだろう。

言葉という面ではエッセイストとしての山崎怜奈も素晴らしいと個人的に思う。内容は親近感の湧くものからアイドルの仕事まで多岐にわたるが、文章の柔らかさ・テンポの良さがあって読みやすい。『歴史のじかん』が書籍化された際も各コーナー末にエッセイが載っているが、歴史的な事件・人物と現代の山崎さん自身、そして私たちを関連付けるところに違和感がなく、大学卒業したばかりの女性が書いたものとは思えないクオリティに仕上がっている印象を受けた。

・ラジオパーソナリティ
・歴史に関する教養番組
・エッセイ
・クイズ番組解答者
・通販番組…etc

ライブやファンとのイベントなどアイドルとしての仕事を除けば、だいたい彼女の仕事は上のように集約されるだろうか。
しかし、彼女が大学で学んできたことは、あまりお仕事には関係のないことらしい。歴史に関してもブログ等で「趣味だ」とはっきり明言している。
そもそも進学する動機を、厳格な父親からの要請があったとはいえ、外国のファンとのコミュニケーションに求めたことからして、大学での学問をアイドル外の仕事に転換する気がさほどないように思える。

多くの人が大学で”専攻”というものを持つのだが、個人的に大学の学問は教養だと思っている。直接的には自分の得にはならない。だが、考え方の幅を広げたり、人間的な深みを増すには欠かせない要素だ。山崎さんはその教養の部分を4年のうちに鍛えていったのだと考えている。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

ご存じ慶応義塾大学の祖・福沢諭吉が『学問ノススメ』で著した有名な一節である。しかし、これはアメリカ独立宣言やフランス人権宣言を読んだ福沢諭吉が人権思想について表現したものであって、彼自身が言いたかったことではない。それに続く文章の中で福沢諭吉はこういっている。

「されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」

仮に山崎さんが、大学に入ることで満足し教養を高めることを怠っていたら、熱心にクイズに取り組む姿勢を見せなかったとしたら、ラジオが好きでもとことん研究する努力がなかったとしたら、今のように活躍する姿はきっと見られなかっただろう。

3.立ち止まってるより前へ進め

『乃木坂工事中』の中で山崎怜奈に関して印象的だった場面は?と聞かれると、「胃もたれ」だったり「バード」だったり「会話に割り込む」だったりその人によっていろいろあるだろうが、個人的に細かいところで凄いなと思ったところがある。
それは#253「8th Year Birthday Liveに潜入」の回で岩本蓮加さんにダンスを教わっていた場面だ。ライブでは全200曲の楽曲が披露され、メンバーも「覚えきれない」とよく口にしていた。当時大学生として締めの期間にあった山崎さんにとってはハードそのものだっただろう。

そこで相談した相手が岩本さんである。前のシングルではアンダーセンターを務めるなど、スキルは折り紙つきで、特にダンスに関しては加入前から身につけていたアイドルの優等生というべき人材である。
私が驚いたのは、4期生が加入するまで最年少であった岩本さんに山崎さんがダンスに関して尋ねていることだ。先輩後輩、年齢差は6歳、選抜経験、話しかける障壁はいくらでもありそうなものだが、それでも気さくにダンスについて聞いているのだと感心した。
そういえば、「会話に割り込む」モノマネを渡辺みり愛さんがした時、多くのメンバーが山崎さんを思い出して笑っていたが、中でも岩本さんは爆笑していたように覚えている。あまり見えない関係だがメンバー同士そうやって話しているのだろう。

「アイドルとしては劣等生」と山崎さんは自分のことを言う。
そうだろうか。

ダンスの面では前述のとおり、若手メンバーからも意見を聴き徐々に魅力を増していった。この辺りも生来の勉強熱心が活きている。乃木坂全体でも屈指のダンス楽曲『日常』では、中田花奈さん、みり愛さん、阪口珠美さんという歴代ダンスメンバーと同じパートを担当することもあった。『My rule』で川後陽菜さんがダンサーの先生から「山崎を参考にしたらいい」とアドバイスをされていたそうだ。プロの目からも長い手足から繰り出されるしなやかなダンスは評価されていたのだろう。

歌の面でも生田絵梨花さんや久保史緒里さんのように劇的に上手いというわけではないが、2021年東京ドームの『きっかけ』ソロパートは丁寧に言葉を紡ぐ彼女らしい上手さがあった。声も個性的で複数人で歌うパートでも彼女がどこで歌っているか分かりやすいメンバーの一人ではないかと思う。よければ『錆びたコンパス』や『口ほどにもないkiss』でソロパートを確認してもらえればと思う。

センターを務めた『錆びたコンパス』は彼女の代表曲になった。第2回乃木坂三昧のリクエスト最多となるなど、ファンからの人気も高い。秋元康さんが書いた歌詞は、山崎さんの歩みを示すようで聞いているこちらの胸を打つ。秋元さんはセンターをイメージして曲作りをすると言われているので、山崎さんの活動のインパクトが歌詞に多大な影響を与えたというのは想像に難くない。

『山崎怜奈の誰かに話したかったこと』を担当するようになってから、練習時間の不足からかライブで彼女が参加できる曲が減った。そのことを彼女は無念がっていたが、それを残念に思える心こそ”アイドルらしい”といえるのではないだろうか。それに『錆びたコンパス』など参加できる曲に対する一曲入魂の思いはそのステージを見ていけば十分に感じることができた。

乃木坂46にはアイドルの”天才”のような方が数多くいる。山崎怜奈というアイドルは天才とは言えないかもしれない。しかし、天才を凌駕する努力のできる秀才ではないだろうか。

4.僕の可能性

「コンプレックスだったので」
『乃木坂工事中』#331終盤、北野日奈子さんはそう発言した。
2期生には「不遇」という言葉が付きまとった。
誰かはその立場への憐れみの情をもって、誰かは応援する人の怒りを肩代わりするかのようにその言葉を発していたように思う。
山崎さんは特に「不遇」と言われ続けていた。
だが、それは彼女たちにはレッテルでしかなかったのではないだろうか。

話を少し戻して2期生のことについて書きたいと思う。
乃木坂46の2期生は2012年に募集を開始、2013年にお披露目だった。
1期生のデビューから僅か1年あまりの出来事だ。
理由を想像するに「1期生の補強」である。
公式ライバルのAKB48の1期生は20人から始まったが、3年を迎える頃には半数近いメンバーが卒業し、大エースの前田敦子さんが卒業する8年目には片手で数えるほどのメンバーしか残っていなかった。そしてだいたいのメンバーが「大学卒業の年」を基準にしてグループを去ることが多かった。
乃木坂46は36人から始まったがセンターが活動辞退するという波乱の船出を迎えることになった。当然、乃木坂運営陣はAKB48と同じように今後も卒業するメンバーが相次ぐと思ったであろう。
そこで、生駒さんの年齢を下限として、その次の年代を「次世代枠」と考え、星野みなみさんや齋藤飛鳥さんと同じ世代のメンバーが集められることになった。
それが2期生だと推測できる。実際、初期メンバーの14人のうち、1996年以降の生まれのメンバーは10人もいる。山崎さんもその中の一人だった。

2015年、山崎さんは大きな転機を迎える。
2年ほどの苦労を耐え、研究生から正規メンバーに昇格したのだ。
その時には2期生は11人に減っていた。前途を懸念して活動を辞退するメンバーも現れたためだ。その時、1期生は27人。
27人である。活動3年にして半数どころか4分の3が残っている。
その次の年に次代を嘱望される3期生・12人が加入する。
その時には1期生は24人になっていた。それでも2期生・3期生を合わせた数よりも多い。
よく、2期生が大衆の目に触れる場に出られなかったことについて、3期生や4期生が槍玉にあげられることがあるが、私の意見は違う。
その原因は「1期生の結束」である。
あまりにも1期生の結束力が強かったために卒業するメンバーが少なく、1期生から2期生への循環がほとんど起きなかったといえる。
1期生が決心をつけて次のステップへ進むころには3期生や4期生が乃木坂の看板を背負わなければならないポジションにいる。現在の状況を見ればよく分かるだろう。

断っておくが、私は1期生が卒業してほしいとはまるで思っていなかったし、現在残ってくれている4名についても大好きだ。
「結束」という見えない力は『乃木撮』なんて写真集が驚異的な売上を叩き出していることからも推察できるように、乃木坂46をここまで大きくしたといってもいい。私もそれに魅せられた一人だ。
その環境を「不遇」と言い換えられてしまったのが2期生である。
「不遇」の人たちには「幸福」な人たちが距離を置いてしまいがちだ。
「幸福」を求めにアイドルのファンになるのに、そういうレッテルを貼られては近づく人も少なくなってしまう。メンバーの間では幸不幸の差などないように振る舞われているのに、である。
メンバーにとっても、後輩たち「幸福」な側から「不遇」に置かれている人たちと交流を持つことを阻害することになるのかもしれない。
もし、の話をしても仕方ないが、そういう言われ方をしていなかったら、先輩・後輩を繋ぐ重要な期として扱われていたのではないかと思ってしまう。もっと乃木坂の中で注目を浴びることができたのかもしれないと思う。

メンバー同士の「縁」を断つことになってしまう。
その言葉はそういう影響を生んでいたのかもしれない。
少し言い過ぎかもしれないが、常々思っていたこととして書き留めておく。

それでも彼女たちは先輩・後輩の垣根を越えて縁を紡いでいくことになったことが救いではある。
山崎さんも『金つぶ』や『推しの1コマ』の枠、クイズ番組の解答者の枠を北川悠理さんや伊藤理々杏さんに繋いでいった。『おはつちゃん』ではMCとして若手メンバーとの気の置けない仲を見せてくれたように思う。
乃木坂の「縁」はそんなことでは断ち切れないのかもしれない。

5.行ったことのない地平線の先

アーティスト写真を見ると2018年あたりから山崎さんの表情が柔和に、より魅力的になっているのではないだろうか。ステージ上の表情の魅力もその頃からあがってきたように思う。
自分の活躍できる場所を見つけたからだろうか。
先日、鈴木絢音さんとの『乃木坂配信中』の中でも、研究生やSHOWROOMの女王と呼ばれていた時期の苦しさを語ってくれた。
彼女自身も転機が訪れたのは「運」と思っているかもしれない。

それでも山崎さんが活路を切り開いていったのは、彼女が大学でため込んだ「教養」や仕事への「姿勢」、そして人との「縁」を大切にする人だったからに他ならない。自らの力で道を切り開き、その道を踏み固め、後輩が歩きやすいように舗装していった。
もし「アイドルの教科書」が存在するのなら、”山崎怜奈”は個性的なアイドルとしてその1ページに名前を刻むだろう。

そして今、山崎怜奈さんはアイドルを卒業して、自由に道を歩く。
いや道はまだ見えないのかもしれない。
彼女が今から切り開いていくのだから。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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