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すずほりを歴史的に考察する

注)敬称略。筆者の妄想が多分に含まれています。

乃木坂46におけるすずほり

すずほり―乃木坂46の2期生、鈴木絢音堀未央奈―は、2期生の中でも、遠方から上京しアイドルになったというつながりから、仲が良いと公言しており、ファンの間でも人気の高いコンビである。同じく2期生の渡辺みり愛とプリン会なるものを結成し、一緒に温泉など旅行にも行く間柄で、プライベートで交友を深めている。

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一方、アイドルとしては2期生の先頭を走り続ける堀の背中をひたすら鈴木が追うという格好であった。堀は乃木坂46の7thシングル「バレッタ」でいきなり研究生からセンターに抜擢され、その後も12th、13thでアンダーを経験した以外は常に選抜であった。それに対し、鈴木は、いわゆる「ボーダー組」であり、研究生を1年以上経験した後、正規メンバーとなった。さらに21stシングル「ジコチューで行こう!」で選抜入りするまで4年をアンダーで活動することになる。鈴木の選抜入りを心から祝福したのも堀であった。そしてファンはそんな関係にまた心動かされるのである。

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さて、本題に入ろう。今回は、この2人の関係を「歴史的」に考察してみたい。堀の出身地は岐阜県、鈴木の出身地は秋田県であることはファンの中でもかなり有名な話だろう。両県の距離はかなり離れているが、そこにどんな歴史的つながりがあるか、想像力をたくましくして読んでいただきたい。

美濃国堀家のお話

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長慶寺というお寺に伝わる、なんとも面妖な人物画である。
書いた人物は堀秀政(ひでまさ)。そしてこれは自画像。
どんなじいさんだよ、と思われるかもしれないが、彼は38歳の若さで亡くなっている。その秀政とはどんな人物だったのかを中心に美濃国(現在の岐阜県)の堀家の話をしていきたい。

堀氏は元々、藤原氏利仁流斎藤氏族、分かりやすくいうと、藤原道長などで有名な藤原さんの一族が分家し、斎藤さんになってそれが美濃まで流れ着いて、その一つが堀さんになったということである。乃木坂46にもサイトウさんが多い(多かった)が、起源は同じと言えるだろう。

そして、戦国時代に一人の俊英が生まれる。堀秀政である。彼は、斎藤家の治める美濃を奪取した織田信長に小姓として仕え頭角を現していく。ちなみに小姓とは信長の「お相手」を務めることもあり、それなりにイケメンだったようだ。他には前田利家や森蘭丸などが知られているだろうか。

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彼は顔立ちだけでなく才能にも優れていた。16歳で奉行(官僚と思えばよい)に任命され政治的な才能を見せるにとどまらず、越前一向一揆や雑賀(さいか)討伐、伊賀の乱などに従軍し活躍するなど、軍事的な才能にも恵まれた。
ついたあだ名は「名人」。

本能寺の変で信長が死んだ後も、堀秀政は「名人」の名にたがわない活躍を見せる。変の起きる直前に羽柴秀吉のもとに派遣されており、明智光秀との山崎の戦いでも活躍。その後も、北ノ庄攻め・長久手の戦い・九州征伐など秀吉の主要な戦いで活躍した。しかし、「名人」も病には勝てず、小田原征伐の陣中で疫病で死去。38歳の若さだった。

その後は、息子の堀秀治が跡を継ぎ、豊臣政権で越後国(現在の新潟県)春日山に45万石の大領をもらうことになる。秀吉亡き後は、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍につき、所領安堵を勝ち取る。
ここまでは良かったが、秀治が早世してしまい、息子・堀忠俊の時にお家騒動が勃発。見事に江戸幕府に目をつけられて改易されてしまう。忠俊は僧侶になって今に続く家系を残しているそうだ。

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ここまで、戦国時代の「堀家」を追ってきたが、話を現代に戻そう。堀未央奈が男装すればイケメンになるし、ダンスや歌、演劇に関しても「名人」とは言いすぎかもしれないが、実にそつなくこなす。そして奇怪な絵の才能。堀の本家は新潟方面へ行ってしまったかもしれないが、岐阜に残った「堀家」もあるだろう。そう考えれば、「名人」堀秀政と堀未央奈にはなにかつながりがあると考えてもおかしくはないだろう。

「鈴木」は秋田までどうやって行ったのか

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鈴木絢音の出身、秋田では5番目に多く、さらに言えば関東では最も多い姓である「鈴木」。しかし、由来は和歌山にある。
現在の和歌山から秋田までどのように「鈴木」が広まっていったのか、歴史上の2人の人物からその謎を紐解いていきたい。

鈴木氏は物部(もののべ)氏族穂積姓を本姓とし、熊野三山信仰と関係が深い。古代から続く血脈で、神官の家系である。熊野信仰の勧進、太平洋交通の確保、商業圏の形成という一連の流れから、神官や商人として関東に流れ着いた人も少なくない。そうして「鈴木」が広まっていった。ここではその中の一つの可能性を追ってみよう。

熊野の山中から紀の川周辺の平野部に移り住んだ土豪の一族を雑賀衆(さいかしゅう)と呼ぶ。彼らは鉄砲伝来からすぐにその技術を取り入れ、傭兵軍団として活躍する。その中で雑賀孫一と呼ばれ指導者的な立場だったのが鈴木重秀(しげひで)である。父・重意(しげおき)と共に周辺をまとめ上げていたようだ。

そんな中、織田信長の侵攻に苦しむ本願寺の門主・顕如(けんにょ)の要請に応じて織田軍と戦うことになる。現在の大阪城の位置にあった石山本願寺や地元・雑賀に侵攻を受けたときは得意の鉄砲を用いて抗戦し、降伏と抵抗を使い分けて織田軍を苦しめた。

しかし、本願寺が降伏し、継戦が不可能とみるや織田方に降伏。秀吉が天下を握ろうとすると雑賀衆の中でも少ない秀吉側に付くことになる。司馬遼太郎が尻啖え孫市』の中で描いた浪漫主義の女たらしではなく、現実主義で権力への自分の売り込み方を知る人物だったようだ。

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話は関東・常陸国(現在の茨城県)に飛ぶ。
ここで紹介したいのはこの地で活躍し「坂東太郎」と恐れられた、佐竹義重である。冶金(やきん)の最新技術を導入して金山を開発、その資金をもって鉄砲を大量に確保し、関東随一の鉄砲隊を作り上げた人物だ。

さて、この鉄砲隊の技術をどこから導入したのか、資料が少ないのが現状である。あくまで推測の域を出ないが、雑賀衆から技術を得た可能性も十分にあるだろう。雑賀衆は傭兵だけでなく商人の側面もあった。この時、鈴木氏が佐竹家の元に移り住んだと考えてもおかしくはない。

その後は、関ヶ原の戦いで息子・義宣(よしのぶ)が石田三成と友人関係にあったため西軍に味方しようとすると、それに反対し対立。結局、東軍が勝利したため佐竹家が秋田に減封させられてしまった。その時、秋田に常陸の美人を連れて行ったという逸話もある。

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繰り返すが、鈴木姓は大変多いため、今回の話はあくまでごくわずかな可能性である。が、上記のように和歌山~茨城~秋田と鈴木氏が流れてきた可能性も否定できない。鈴木絢音が方言として関西に近い言葉を使っていたのも、秋田が移住の少ない地域だということを加味すればこの説を補ってくれるかもしれない。そういえば、「ずっきゅん」とファンの心を「撃ち抜く」ポーズでおなじみの軍団に入ったのも歴史の必然といえばそうである。

すずほりの因果とは?

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さて、ここまで主に戦国時代の「堀」と「鈴木」を見てきたわけだが、共通する項目があったことに読者の皆様はお気づきだろうか。
それは「雑賀」という地名である。鈴木重秀が守った雑賀の地を、織田信長の指揮下の元、堀秀政らが攻撃したのだ。つまり、2人には歴史的な交錯があったとみてもいいはずである。

さらに、その後、鈴木重秀は羽柴秀吉が徳川家康らと戦った「小牧・長久手の戦い」に羽柴軍の鉄砲隊長として参戦している。この時は堀秀政が長久手の地で徳川軍と激しい戦闘を行った。この時は共に味方として秀吉の天下統一事業に貢献している。双方著名な武将であったから、その時に会っているかもしれない。

いずれにしても、400年の時を超えて2人の縁は再びつながったのである。
血なまぐさい戦場からきらびやかなアイドルの世界へ。全く違う居場所ながら、最後には仲間として共に戦うという共通性も感じられる。
そんな歴史的なロマンが垣間見えるすずほりの関係性にこれからも注目していきたい。

武将のイメージ画はKoei様のものを使用しました。

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