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大河「いだてん」の分析 【第25話の感想②】 いだてんと“新聞”の歴史

第25話から第2章の田畑政治(阿部サダヲ)編スタート。
分析感想は2つに分けて書いていて、これは“後編”。後編では、本筋のストーリーとは関係なく、この時代の“新聞”について、思ったり調べたことをまとめておきます。先に前編をぜひ読んでください。

〜あらすじ〜
いだてん後半の主人公がいよいよ登場! 四三(中村勘九郎)がまさかの3度目のオリンピックに出場し、負けて帰ってきた報告会で「負けちゃ意味がない」と息巻く若者が現れる。田畑政治(阿部サダヲ)である。30歳で死ぬと予言され、体の弱かった彼は、自分が生きている間に日本水泳を世界レベルに引き上げようと血気盛ん。朝日新聞に記者として入社し、政治家の大物・高橋是清(萩原健一)にも接触。震災不況でオリンピック参加に逃げ腰の治五郎(役所広司)や金に厳しい岸 清一(岩松 了)も驚く多額の資金援助をとりつけてみせる。


1、震災直後の朝日新聞社

田畑政治は、朝日新聞社に入社し、記者になる。
1924年、未曾有の関東大震災の翌年だ。

面接でおとずれた新聞社本社の建物は、壊れかけでガタガタ。これは震災影響によるものだ。1923年の震災で、朝日新聞東京本社も半壊においこまれた。
震災当時の新聞社の状況を書いた朝日自身の記事があったので引用する。

震災当日、東京朝日新聞の社員らは、社屋からほど近い皇居前広場にテントを張って避難。
翌2日、近くの帝国ホテルに仮事務所を設けて業務を続けます。しかし、新聞用紙の確保や輪転機の整備に苦労したようです。朝刊4ページで東京朝日新聞を復刊できたのは、震災から11日後の9月12日です。10月14日、帝国ホテルの仮事務所から、修復した社屋に戻りましたが、朝刊8ページ、夕刊4ページと震災前の紙面に戻すことができたのは、12月になってからでした。


いだてんのシーン画像も1枚添付しよう。
ほら、あちこちを木材で支えている。半壊しているのである。


2、“鳩”が飛び交う新聞社本社

それと、建物の中を鳩が飛びかっていた。
これは“伝書鳩”である。
現代から考えると嘘のようだが、鳩の帰巣本能を使う遠距離連絡方法で、これより早い通信手段は他になかった。特に、都市部が崩壊した関東大震災後の時期は伝書鳩は重宝したそうだ。
こちらも朝日新聞の特集記事から引用しよう。

(伝書鳩は) プロイセンとフランスの普仏戦争(1870~71年)で目覚ましい活躍をし、オーストリアやイタリアなど欧州各国で導入されました。
日本でも19世紀末から軍が研究を開始。通信や交通手段が途絶した関東大震災(1923年)で有用性が認められ、多くの報道機関が鳩係を置いて訓練するようになりました。
東京朝日の創刊50周年を伝える1938(昭和13)年の紙面にこんな記事がありました。
その当時の東京朝日の設備と陣容を記したもので、「伝書鳩総数 四百五十羽」「一日平均使用 五十三羽」「一日飛翔距離合計 二千四百十四キロ」とあります。
単純計算すると、その日の「出番」の鳩は、平均で45キロ飛んでいたことになります。

1日平均53羽。eメールのような使い方だ。
それで、新聞社内で鳩が飛び交っていたのである。
これも放映シーンのキャプチャを1枚添付。鳩小屋から逃げだしたのかな。


3、これまでの『いだてん』と新聞の関わり

ぼくのブログではこれまで過去の“いだてんの各回の感想”の中でも、「新聞社」を何度かとりあげる機会があった。ここでそれらを振り返っておく。

まずひとつめは、
“異国で開催されるオリンピック”を日本に居て応援しようにも、“同時中継できる通信技術がまったくない”という話題に、第12話で触れた。

頼りになるのは“新聞報道”だが、現地との時間ギャップが大きい。
そしてこのギャップの問題は、その後、“戦争時に生じた報道の不確かさの問題”にもつながってしまったのでは?と批評を展開した。過去記事から引用する。

この時代、“同時中継をする技術が一切ない”ので、レースがどうなっているのかは日本からはまったくわからない。でも、精一杯応援をする
世界中の出来事が同時中継される現代人には、この感覚はわからなくなってしまった。
歌い踊り疲れて眠った春野すや(綾瀬はるか)が慌てて目を覚まして、隣にいた四三の兄(中村獅童)に「四三さんは?どうなった?」と尋ねる。
笑いながら兄は応える、
「そりゃあ、明日か明後日の新聞でも見んと、結果がどうなったのかはわからんばい」
明日か、遅いと、明後日だという。
生中継がないとはこういうことだ。
遠くストックホルムで戦う四三と、それを応援する日本の仲間たちの歓声の“ギャップ”は、
数十年後に起こる“戦争のメタファー”のようにも感じとれる。
勝ってるのか負けてるのかもわからない。生きてるのか死んでいるのかもわからない。それでも、応援をする。
その時間差は、とてつもなく切ない。

もうひとつは、
金栗四三が日本全国津々浦々横断マラソンに挑戦している時に、“スポンサーとして新聞社が付いていた”という話題で触れた。第18話だ。
こちらも過去記事を引用する。

どうやらあの日本全国津々浦々マラソンにはスポンサーがついている。ただ趣味で走ってるだけではなくて、この時期の四三は、日本マラソン界の発展のために、マラソンの認知やファンの育成やランナーの増加のために日本全国を走っている。テレビというマスコミがないので、直接、日本中を走るのが一番の宣伝になるのだろう。
協賛についているのは新聞社が中心で、スポンサーになりながら連日の地方の報道記事づくりも兼ねている。四三が泊まる宿も、新聞社の支社などを借りたりしていたようだ。どこの町にいっても沿道を人が埋めるほどの応援だったようで、新聞社も部数が出たことだろう。
この時期には金栗四三はすっかり相当の有名人で、“人が集められるタレント”でありながら、“協賛が集められるメディア”でもあったようだ。

インターネットどころか、テレビも、ラジオさえない時代、新聞は重要な情報源であった。

代替手段が少ないため、メディアとしての影響力もある。全国津々浦々まで伝えられる情報インフラ性も、明治後期〜大正期の早いタイミングに整いつつあった。それが、これまでのいだてんの放送からも垣間見えた。

そこに、第2章の主人公、田畑政治は就職するのである。近代史としては、望ましい主人公である。いだてんを観賞しながら、近代メディアの歴史を目撃することにきっとなる。

(おわり)
※他の回の分析感想はこちら↓


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