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大河「いだてん」の分析 【第26話の感想】 感動のアムステルダムオリンピックと政治の影

「いだてん全話の感想」ブログです。
第26話は、1928年開催のアムステルダムオリンピックが舞台。日本人初の女子オリンピアンである人見絹枝の活躍と、その裏に忍び寄る政治の影などを、感想書きとめておきます。

※他の回の感想分析はこちら↓


1、“悲願”の女子選手オリンピック参加

第26話は、“人見絹枝物語”であった。
人見絹枝は、日本人女子で初めてのオリンピックメダリストとなるオリンピアン選手。

このアムステルダム五輪が、“女子競技が開催された初のオリンピック”でもある。

第1部の金栗四三編の頃から“女子スポーツの創生”に四三も注力してきて、架空の重要人物、シマちゃんもオリンピックに女子選手が出場できるのを夢に見たまま被災してしまった。
視聴者も、その悲願の思い、ここまでの苦労、差別的視線や非難を知っているからこそ、人見絹枝の活躍に感動する。

100メートル走の予選で負けてしまった後、ロッカールームで人見絹枝が泣き叫びながら「男は負けても帰れるでしょう、でも女は帰れません、やっぱり女はだめだと笑われます」「女子スポーツの未来を私が閉ざしてしまう」と訴えるシーンは大きな見所であった。

2、日本近代史としての“性差”

夢が悲願であればあるほど、重圧は重くなる。

そもそも男女に関わらず、選手たちは国を代表して国際大会オリンピックに参加する。
「ニッポン、お国のために」というプレッシャーは、今の時代では計りかねるほどに重くのしかかったろうし、まさに言葉の意味そのままに“命懸け”が頭をよぎる。

女子選手はそれに加えて、「女がスポーツなんてやるものではない」という文化土壌の中、あえて初出場するのである。“行ってこい”と総意で送り出されてもいないのに、切り拓くのである。第1号事例がもしうまくいかなければ、その反対勢力(反対世論)の声はより力を増し、女子とスポーツの距離はさらに開いてしまうだろう。相当のプレッシャーである。

大河ドラマいだてんが、この数ヶ月かけて丁寧に丁寧に時代背景の“性差”を描いてきてくれたからこそ、視聴者は人見絹枝の女性としての苦労が理解できるし、“これは現代にも続く課題だ”と胸に手を当てるのである。
「いだてんは大河なのか?」という意見も世論に散見されるが、“日本の近代史”をこうして側面から国民に伝え、“現代がどういった歴史の上に成り立っているのか”を考えさせているのである。それはまさしく大河ドラマの本懐だ。

3、国際試合のナショナリズム性

ところで1928年当時はまだ、先進国同士が国益を争って戦争をする時代で、“勝ち負けの競い合い”をやっている。ここの視点を持って近代を見ることは大切だ。現代とはわけが違うのである。

そんな中でも“オリンピックのコンセプト”とは、本来、戦争と対比のポジションで“平和的勝負”であるはずだが、近代にその発祥があるからか、勝負する単位は“国の勝負”の発想から逸脱できていないともいえる。こうなるとどうしても“擬似的戦争”の要素がぬぐいにくい。
もっと個人単位とか、多国籍なクラブチーム単位のほうがナショナリズムの要素は薄まるはずだが、どうにかならないものかな。

国同士間でメダルを争うことで、国民感情は「諸外国に負けるな」とナショナリズムが高揚する。

オリンピック出場前の人見絹枝は新聞記者からインタビューを受けた時、声をふるわせながら、こう述べる。「全身全霊、お国のために、死ぬ気で、戦ってまいります」。

これって、兵役で前線へと向かう“軍人の旅立ちの言葉”と、あまりに重なりはしないか。

4、田畑政治は、救世主か悪魔か?

アムステルダムオリンピックに選手団を参加させるには高額な渡航予算が必要となる。この“予算集め”も26話の見どころであった。

第2章の主人公、田畑政治は単身、大蔵大臣高橋是清に交渉に出向き、現在の貨幣価値換算だと4億円のオリンピック予算を持ち帰ってくる。(アンビリバボー、と可児さんが絶句する。)
お金に悩んできた体協(日本オリンピック協会)からしたら、奇跡的な大金星、どんでん返しである。

高橋是清は邸宅で言う。「お国のためにならないオリンピックには関心はない。だから国は、金も出さないし、代わりに口も出さない」
それに対して田畑政治はこう言い返す。

「政治のためにオリンピックを使えばいいんですよ」「金も出して、口も出してはどうですか」

「身体の大きな西洋人との戦いに勝つ日本人選手たちを見て国民は大いに盛り上がり、次へ次へと後進が生まれお国のために戦うでしょう。」

そう。2019年現在でも思う。スポーツには愛国心を高めるチカラがある。各国代表同士が競い合い、それを応援するのでおのずと“他国への敵対心”は芽生えるし、“国民感情”は団結力を増す。
しかも時代はまだ、20世紀前半の近代史である。
スポーツが、オリンピックが、この先の“政治や戦争”に利用されるリスクをはらんでいる季節なのである。

田畑政治は、オリンピック予算を集めてきた救世主であると同時に、スポーツの世界に“政治や戦争”を引き寄せてきた悪魔でもある。
天使か悪魔か。どちらにころぶのか。扉は開かれたのである。

(おわり)


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