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大河「いだてん」の分析【第35話の感想】 ベルリンで露呈する“人種や民族の諸問題”とオリンピックの可能性

いだてんの全話の感想ブログです。今回は第35話「民族の祭典」の回の感想や分析を書きとめます。第35話では、ヒトラー政権下にある1936年ベルリンオリンピックが開幕する。

(他の回の感想分析はこちら↓)

〜第35話「民族の祭典」あらすじ〜
1936年夏。ベルリンで4年後の次回大会の開催地を決めるIOC総会が始まり、嘉納治五郎(役所広司)は「日本で平和の祭典を!」と熱く訴える。その直後に開幕したベルリンオリンピックは政権を握るナチスが総力をあげて運営する大規模な大会となり、田畑政治(阿部サダヲ)を圧倒し当惑させる。マラソンでは金栗四三(中村勘九郎)と同じハリマヤ足袋を履くランナーが出場。水泳では前畑秀子(上白石萌歌)のレースが迫る。


1、ヒトラーのプロパガンダ

大河いだてんがとりあげたオリンピックも、はや7回目である。陽気で華やかな1932年ロサンゼルスオリンピックと比較すると、一転して不穏で荘厳な1936年ベルリンオリンピック。

いだてんでは繰り返し課題提起されてきた事だが、オリンピックは、政治や戦争や民族や宗教といった諸問題から、一定の距離感を保つべきである。純粋にスポーツを通じて、人と人とが原始的に磨き上げた身体能力のみを競い合う楽しみが、本来のオリンピックなのである。

しかしオリンピックは政治の介入を許してしまう。ナチスのプロパガンダだ。
1936年は、ナチス政権下のドイツ開催である。
第一次世界大戦後の大混乱と世界大恐慌の直撃を経て、不況時ほどナチス・ヒトラーは、カリスマ的に支持を集めドイツ国内を中心にその影響力を巨大化してきた。ベルリンオリンピックの頃はそのひとつのピークとも呼べる。

ヒトラーは聴衆を引き込む演説に長け、プロパガンダの魔術師である。“プロパガンダ”とはWikipediaではこう説明がある。

特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為である。通常、情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。ラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。

広告・宣伝という言葉よりは、ニュアンスとしては“否定的な意味”がやや強く含まれてもいる

本来のプロパガンダという語は中立的なものであるが、カトリック教会の宗教的なプロパガンダは、敵対勢力からは反感を持って語られるようになり、プロパガンダという語自体が軽蔑的に扱われ、「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」と同義と見るようになった。このため、ある団体が対立する団体の行動・広告などを「プロパガンダである」と主張すること自体もプロパガンダたりうる。
またプロパガンダを思想用語として用い、積極的に利用したウラジーミル・レーニンとソビエト連邦や、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツにおいては、情報統制と組み合わせた大規模なプロパガンダが行われるようになった。そのため西側諸国ではプロパガンダという言葉を一種の反民主主義的な価値を内包する言葉として利用されることもあるが、(後略)


ヒトラーの右腕、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスのアドバイスで、ヒトラーはベルリンでのオリンピック開催を決める。世界中に、ドイツ政権の統制力、ドイツ国力の復活、ドイツの底力を見せつける絶好の機会にできると踏んだからだ。

この狙いは見事に成功する。
オリンピックを通じて、“ドイツのすごさ”が世界中に喧伝される。

ドラマの中でも嘉納治五郎たちはベルリンの開会式の巨大なスタジアムと律された大衆統制の荘厳さにため息をもらしていたし、田畑もベルリンの異質さに過敏に反応を示していた。
“カリスマヒトラーの存在感”を、オリンピックというプラットフォームを通じて世界中に知らしめる機会になったのだ。

ヒトラーは自伝著書『我が闘争』の中でこう記している。

私は以前からずっと宣伝活動に大変興味を持っていた。(中略)
大衆の需要能力は非常に限られており、理解力は小さいが忘却力は大きい。この事実からすればすべての効果的な宣伝活動は、重点をうんと制限し、そしてこれをスローガンのように利用し、その言葉によって、目的としたものが最後の一人にまで思い浮かべることができるよう継続的に行わなければならない。

そして、プロパガンダの極意をまとめるとこう記している。

・テーマや標語を絞る
・あまり知性を要求しない
・大衆の情緒的感受性を狙う
・細部に立ち入らない
・信条に応じ、何千回と繰り返す

新聞や配布物はもちろん、ラジオや映画やレコード、そしてテレビといった新しい情報媒体をすぐに取り入れ、ヒトラーの言葉は世界中に拡散された。(オリンピックに初めてテレビ放送が導入されたのもこのベルリンからだ)
これらプロパガンダの“実践の場”として、オリンピックという国際舞台は、格好の機会となったのである。

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2、“人種や民族の問題”を考えさせられる

サブタイトルにある「民族の祭典」とは、ドイツ製作による“1936年ベルリンオリンピックの記録映画のタイトル”からの借用である。

「民族」とは何だろう。
あまりに大きなテーマなのでこのブログでは表層的な触れ方にはなるが、今回のいだてんではこの「民族という問題」に触れようと挑戦する姿勢がところどころでみえる。
まず先に「民族」の意味をWikipediaから引用すると、こうある。

民族(ethnic group)とは、一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、(後略)

ちなみに対比として、「国家」の意味も見ておこう。

国家とは、国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。
領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体である。
政治機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし社会の組織化をする。

“国家、国民”のような後発的社会性のくくりに比べると、“民族”はもっと土着的で原始的なものだ。ルーツや、起源。

ヒトラーは「アーリア民族を中心に据えた人種主義と、反ユダヤ主義を掲げた政治活動」を推進したことで知られる。

人種主義からくる迫害や差別、選民思想。

“人種や民族に関わる問題”が、今回の第35話だけでも少なくとも4点は示された。列記しよう。

(1) 日本選手団の日本語通訳係は、どうやらユダヤ人だという。ナチスは、世界の目を気にして、オリンピック期間前後だけの限定的な人種迫害政策の緩和を行い、“ユダヤ人”にも職を与えた。また、それまでドイツ中に貼られた反ユダヤ人の標語看板が姿を消し、ユダヤ系選手の参加も容認された。

(2) アーリア民族中心主義のヒトラーは、陸上競技で金メダルを次々とったアメリカ代表の“黒人”選手、ジェシー・オーエンスの強さを快く思わず握手をしなかった、という逸話が残る。

(3) 日本代表のマラソン選手2名は、韓国併合以降に日本人の枠組みになった“朝鮮出身者”(朝鮮人)であった。高成績の1位と3位を受賞したが、彼らは表彰式で、日本の国旗が掲げられ、日本の国歌が流れる事を聞かされてなかった。

(4) IOCで催された1940年オリンピック開催国の投票では、日本といまにも戦争という状態にある中国代表が、なんと日本に投票。「同じ“アジア人”の悲願として」だと語った。国へ戻ると非難を浴びる事になるかもしれない。しかし彼は「政治とオリンピックは分けて考えねばならない」と指摘した。

多様な課題だ。

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3、“国家や民族”を越えられる、オリンピックの可能性

ユダヤ人、黒人、朝鮮人、アジア人。
いろいろな問題がからみあっている。
民族とは。併合後の国民とは。白人と黒人とは。欧米人とアジア人とは。

オリンピックは“平和の祭典”であり、“スポーツで身体を競い合うただのお祭り”であるべきだ。しかし、国家単位で順位を競うフレームがあるせいもあり、こうも問題が絡み合う。

しかし、大河いだてんでは、
足袋職人である播磨屋の辛作に、こう語らせる。

日本人だろうが、朝鮮人だろうが、アメリカ人だろうが、ドイツ人だろうが、うちの足袋を履いて走ってくれて、勝ったらうれしい。それじゃダメかね。

問われた金栗四三は叫んで肯定する。「それでよか」。

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加えてもうひとつ過去の回から引用すると、
いだてん第29話のロサンゼルスオリンピックの時、現地で普段、迫害を受けていた黒人の門番たちが、日本のベテラン水泳選手たちのファンになり、大会本番当日、国を越えて、その黒人は日本人チームにエールを送った。
当ブログの過去の文章から、少し長めに転載しよう。

1930年代のアメリカでは、現地に住む日系人たちは影で差別を受けていて、オリンピックの練習会場の門番を任されている黒人たちにも差別が残っているという歴史背景が見え隠れする。
白人による白人主義。同じプールには白人しか入れたくないというような意識も白人たちには色濃く残る時代である。
毎夜隠れて深夜遅くまで練習を繰り返す日本選手のベテラン勢、高石に鶴田たち。
その泳ぐ音を毎日毎日静かに聞いて見守っていた門番の黒人が、最後のシーン、選考会の会場に姿を見せて、高石たちに「You can do it! You can do it!」と叫んで応援をする。
人種を越えたエール。国を越えた応援。


“スポーツの力とは何か。オリンピックの国際平和とは何か”と問われる時、このシーンには、そのひとつのヒントがあったのかもしれないなと感じさせてくれた、第29話なのであった。


ここに光明はある。

民族も、人種も、国民も、何のフレームにも縛られず、ただ純粋に応援する。
選手たちのこれまでの練習の努力に声援を送る。身体の美しさや可能性に、ただ感動をする。

いや、民族や、人種や、国家国民や、宗教や、政治や、それらの枠組みをも越えて応援ができる事こそが、それこそがオリンピックの価値なのかもしれない。

我々人類には、“同じ人類”なのにいろんな理由からフレームで人を区切り、こっちは敵だあっちは味方だと徒党を組んでは争い続けてきた数千年の悲しき歴史がある。

それぞれのフレームには、それぞれの時代でそれぞれが生き残るために寄り合う仲間が必要だったのも事実だ。しかし、科学技術が急速に発展し、一度の戦争で亡くなる人々の数も異常に多くなってきた19世紀から20世紀にかけて、この“戦争の歴史”を見直さなければならない局面もやってきた。このままでは人類滅亡と隣り合わせだからだ。

オリンピックという新しいフレームには、
人類史のその“大きな歴史転換”を背負える可能性
があるのではないか?

(おわり)
※他の回の感想分析はこちら↓


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