見出し画像

大河「いだてん」の分析【第38話の感想】 “異様な万歳”が作り出した“誰にも止められない戦争”

いだてんの全話感想ブログです。
2019年も早いものでもう10月となった。つまり1年間続く長編の大河も、4分の3が終わり、残り3ヶ月となったわけだ。

いだてんではわりと早い時期から“1943年の学徒出陣を描こうとしている事”は暗示されていた。そして今回ついにその時がきた。
この10ヶ月のあいだに着々と張られてきた伏線を振り返りながら、今年の大河は“学徒出陣”を通じて何のメッセージを込めようとしたのか分析したいと思う。

〜第38話のあらすじ〜
嘉納治五郎(役所広司)の死によって求心力を失う組織委員会。日中戦争が長期化するなか、1940年の東京オリンピック開催への反発は厳しさを増していく。追い詰められたIOC委員の副島(塚本晋也)は招致返上を提案するが、嘉納に夢を託された田畑(阿部サダヲ)は激しく葛藤する。金栗(中村勘九郎)の弟子、勝(仲野太賀)はりく(杉咲 花)と結婚するが、戦争が2人の将来に立ちはだかる。同じころ、孝蔵(森山未來)は志ん生を襲名する。

1、異様な“万歳”

まず、なんといっても今回の放映を見ていてその異様さに誰もが言葉を無くしたのは、“万歳”だ。

日本中の、いくつもの“異様な万歳”が映し出された。

明治神宮外苑競技場、大観衆の学徒出陣式典で。
足袋のハリマヤの居間では勝の召集令状を祝って。
朝日新聞本社の社員たちがラジオ放送で太平洋戦争勃発報道を聴きながら。

万歳、万歳、万歳。
日本中のあちこちで“万歳”が沸き起こっている。

画像3

画像4

2、30年前との“万歳”の対比

過去回を振り返ってみると、はじめていだてんで“万歳”がフォーカスされたのは、第8話であった。
1912年。日本初のオリンピック出場のために四三と弥彦が新橋駅に着くと、駅にはたくさんの観衆が駆けつけて大応援がなされていた。

画像6

当ブログの過去記事からこのシーンを引用しよう。

第8話のサブタイトルでもある『敵は幾万』、これは歌のタイトルである。
ストックホルムへ出発するオリンピック団を祝福するために大観衆が集まった新橋駅では、応援団員たちによって高らかに『敵は幾万』が歌われた、と“当時の新聞記事”にある。書き起こそう。
『汽笛、にわかに起こり
 高師生徒などが
 声を限りに歌う「敵は幾万」。
 金栗、三島、大森夫妻のために、
 万歳、万歳。』

この「敵は幾万」という“軍歌”は、歴史上、大東亜戦争とゆかりが深い。wikipediaには「太平洋戦争時の大本営発表の戦勝発表の際、前後で流された歌」とある。この大本営発表というのは、戦況状況報告のことである。

しかし、それはのちの時代の話しである。この1912年当時の学生たちが『敵は幾万』を歌ったことに政治的な思惑はなく、純粋な応援歌として歌われただけだと思われる。
新聞報道も、軍歌も、新橋駅の応援団も、1912年当時はただ純粋に、同じ日本人として“オリンピック団を祝福している”だけである。戦うのなら勝って帰ってこられるよう応援したい。それだけである。

それでもここにはじんわりと、この後にはじまる“戦争の匂い”がにじみ出ている。
このオリンピック団出発の熱狂の先に、“戦争へ出陣する応援の熱狂”がイメージとしてオーバーラップしてくる。

これが“一つ目の万歳”である。

そして次に印象的なのは、そこから24年後、1936年ベルリンオリンピックでの「前畑がんばれ」である。
これまた当ブログの過去記事から引用しよう。

前畑が号砲一発、スタートしてからゴールするまで、わずか3分3秒6。
この3分3秒6のあいだに、いくつもの場所での、いくつもの応援シーンが映された。(中略)
たくさんの「がんばれ」が矢継ぎ早に代わるがわる画面に映し出されたが、これらはほんの代表的な「がんばれ」だ。日本中が「前畑がんばれ!」と声をあげたということの象徴だ。
きっと、政治家も、兵隊も。都会に住む人も、田舎に住む人も。若者も、老人も。すべて。
がんばれ、がんばれ、がんばれ。
前畑秀子が日本にもたらしたのは、メダル以上に、日本中の明るい笑顔だった。

画像2


ドラマいだてんは、30年間もの時間の流れを描きながら、日本人の“万歳の対比”を我々に見せつけたのである。

1912年のストックホルム出発の万歳。
1936年の前畑がんばれの万歳。
そして、1943年学徒出陣の万歳。

いずれも“同じ日本人の挑戦を応援する万歳”だったはずだ。そこに違いはなかったはずなのに。
どこでボタンを掛け違えたのか?
維新以降、日本が欧米列強に屈して支配されてしまわぬよう、“日本人一丸”となり国を守り国力増強に邁進してきただけだった。
がんばれがんばれ、万歳万歳。
いつのまにか、何かが違う。こんな事を応援したかったのか? 誰もが胸に違和感を抱きはじめながら、万歳を叫ぶ。

3、誰が戦争を止められるのか?

ヒトラーは、1936年のベルリンオリンピック開催に向けて、自論のオリンピック反対から賛成派へと大きく舵を切り替える時、一時的にだが国中の戦闘態勢も民族差別もおさえてみせた。そうしないと世界からの賛同が得られなかったからである。独裁政治のヒトラーには、その“一時的中止”がコントロールできたのである。

1939年。開催国を返上すると決断した副島に、田畑がお願いをする。「やめるのはオリンピックじゃなくて、戦争のほうじゃないの?戦争をやめてくれって電話してくださいよ!」

画像5

感動的で力強いメッセージであるが、しかし副島には、そしてもちろん田畑にも、そんなことを実行できる力はないのである。そんなことを口にしたら軍兵が押しかけてきてやられてしまう。
今回の大河の主人公たちは、将軍でも軍師でもない。ただの町人のひとりなのである。無力で、非力で、戦争反対を口にすることさえできない。

そして、そのこと以上に重要な事は、
総理大臣にお願いしたところで、総理大臣にも“戦争を止められない”という事である。日本はそういう国だったのだ。いだてんを見てればわかる。もう誰にも止められないのだ。副島の苦渋の表情からそれがわかる。
転がりだした雪玉のように、転がりながら大きさを増してしまっていて、今や“転がした人物”にも止めようがなくなっている。

オリンピック誘致会議の「話の噛み合わない派閥どおしの平行線の議論」を見てるとわかる。どこにも“主導権”がないことを。
そして、「播磨屋の居間に鳴り響く万歳三唱」を見ていても気づく。部屋には身内しかいないのにも関わらず、“行きたくない”とか“日本政府を恨んでやる”とかいう声をださずに、万歳万歳と“みんなで喜ぶフリ”をはじめてしまう様子を見ていても、大問題だと思う。

“戦争の主導者”に実態がない。国民は政府が導いていると感じているだろうが、政府は政府なりに国民の顔色を見て、国民に恥じぬ行動をとろうと必死なのだともみえる。そうして、“実態なきムード”が戦争へと導いている。

政治家になった河野一郎が苦虫を潰した表情で田畑から目を逸らす。軍部の圧力に抗い言論の自由を守ろうと戦ってきた上司の緒方竹虎が万歳をしている。そして、うながされて田畑政治も、万歳してみせる。

学生が、戦場へと駆り出されるのだ。

その“異常事態”を止められなかったのが “主導者なきムード”なのだとしたら、我々は、未来に再び“その時”が訪れた時、本当に歴史をくりかえさずにいられるだろうか?きちんと抗えるのか?

ヒトラーの登場は、もしかすると歴史の学習で未然に防げるかもしれない。しかし相手に実存がなく、“そういうムード”だとしたら?

今回のいだてんを通じて“戦争の怖さ”をあらためて考えさせられるし、“考え続けなければならない”と忠告されたのである。

(おわり)
※他の回の感想分析はこちら↓


コツコツ書き続けるので、サポートいただけたらがんばれます。