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【まとめ】 NHK大河「いだてん」第11〜20話のまとめ (10時間ぶんを10分でふりかえり)

いだてんの毎話、感想分析をブログに書いてます。全話完走が目標。
第20話の区切りが良い回まできたので、10回分を簡略版にしてまとめました。大きな流れはこのほうがつかみやすいはずです。

第11話が「1912年ストックホルムオリンピックの開会式のシーン」から始まり、第12話はちょうど「1920年アントワープオリンピックの結果報告会のシーン」で終わる。2回のオリンピックと、そのあいだの8年間がつまった10話分である。
では、第11話から順に。

◆第11回 「百年の孤独」3/17放送

1912年ストックホルムオリンピックの開会式のシーンではじまる回。日本人にとって初のオリンピック出場、たった2人だけのオリンピアン。

三島弥彦が短距離走に出場するが、最下位。日本国内では負けナシだったが歯が立たない。
それでも弥彦は、さわやかに、全力を尽くし、通快男子らしく“オリンピックを楽しんで”みせた。

それでも弥彦は最後にこう言葉を残している。
「やりきったよ。でも日本は、短距離走では100年かかっても欧米には追いつけそうにない」。

僕の分析感想ブログでは、その弥彦の言葉を受けて、1912年から約100年ぶんの、100メートル走の「日本記録」と「世界記録」のふたつのデータを、独自にチャート化して分析したりしている。ぜひ読んでみてください。

◆第12回 「太陽がいっぱい」3/24放送

1912年7月14日、ストックホルムオリンピックのマラソン競技の当日にフォーカスを当てた回。

今回の大河が1年かけて描く“歴史”にとっては、ひとつの節目となる日。
主人公の金栗四三が、炎天下で日射病にかかり倒れてしまい、スタジアムまでゴールできず“行方不明”と、オリンピックの歴史に公式記録される日である。その経緯を詳細に描いてみせた。

結局、日本人初のオリンピック参加は、成績だけ見ると散々に終わる。ただ、“2人きりのオリンピアン”のその後の人生は大きく分岐する。
三島弥彦は、これ以降スポーツにはまったく関与しなくなり日本短距離界の歴史からその名前は消え、
金栗四三は、この日を皮切りに“日本マラソン界の発展の立役者”を担っていく。

“なにがふたりをここまで分かつのか”。
その分岐点について、ブログでは分析しています。


◆第13回「復活」3/31放送

第13回は、祭りのあと。オリンピックがおわっての後日談の回。いろいろな別れがありしんみりする回。

四三がコースアウトした事件現場の“分かれ道”。

この“分かれ道”には、“出会い”と“別れ”がひとつずつあった。

ひとつは“幼い頃の四三自身”との出会いだ。
幻となってあらわれ、右の道へと走り去っていった。四三はそれを追いかけて、コースアウトしてしまう。

もうひとつが、“ラザロ選手”との別れだ。
オリンピックスタジアムでの最終練習のロッカールームで仲良くなったポルトガル代表のマラソン選手。
“分かれ道”に差し掛かり、後ろから追いかけてきたラザロが「No!No!」と叫ぶ。追いつかれると思った四三は慌てて右へと走るのだが、ラザロは追いかけてこない。ラザロは正しいコースを進み、四三は森の奥深くへと迷い込む。
しかし“亡くなってしまう”のはラザロだった。

この“分かれ道での出来事”についての考察を、ブログでは書きました。


◆第14回「新世界」4/14放送

この回から、日本に帰国。
四三たちがストックホルムへ渡航していた4ヶ月の間に、明治天皇が崩御され、新元号『大正』へと時代は移り変わった。
新元号。“新世界”。

まさに放送時の2019年の新元号『令和』への変化点とシンクロする。

たった4ヶ月で、日本の空気感が変わっているのを四三は感じとる。

新たな登場人物、二階堂トクヨ(寺島しのぶ)があらわれる。強い女性たちの登場。

天狗倶楽部の解散。「歳もとった。時代も変わった」。
三島弥彦は旅立つ。「ならば、僕はアメリカに渡ろう」

体育協会には革命が起こり、嘉納治五郎の不在時に永井がポストを埋めている。

そして、美濃部孝蔵(朝太)も旅立つ。
地方へのドサ回り巡業に帯同するよう、師匠から指示された。新しい挑戦の旅立ちである。

“金栗四三の旅立ち”は、まだ今回には描かれなかった。
四三は、日本の変化にまだついていけていないとでもいうように“迷い”をみせている。
いろんな仲間の旅立ちを横目に見ながら、四三も、“自分の旅立ちの模索”を始めている。

◆第15回「あゝ結婚」4/21放送

この回は、サブタイトルにあるとおり、金栗四三が春野スヤ(綾瀬はるか)と結婚をするのが中心の回。
ストックホルムの傷がまだ癒えきらぬ中、新元号となり周辺の大きな変化に翻弄されながらも、次の目標を模索する季節の四三にとって、こののち長年に渡り支えとなるパートナーのスヤをこの時期に一緒になれたことは重要なパーツである。

とにかく春野スヤは、いい子。
綾瀬はるかはこういう役がよく似合う。健気で、明るくて元気で、まっすぐ素直で頑張り屋。

この回から、静岡の浜松が登場する。師匠の勧めで地方巡業に出た孝蔵(のちの志ん生)が着いた町が、勝鬨亭という寄席のある浜松だった。
“浜松”という土地は、いだてん後半の主人公「田畑政治(阿部サダヲ)」の出身地なのである。
メガネをかけて小生意気な中学生くらいの少年が志ん生に食ってかかる。これが後年の田畑政次と志ん生の出会いである。

この回の分析ブログでは、「いかに浜松が古くから“水泳の町”だったか」についての考察や、「志ん生が浜松にいたのが史実だったという痕跡」などについて書いています。

◆第16回「ベルリンの壁」4/28放送

この回は1914〜1915年頃。金栗四三は23〜24歳で選手としては絶好調の季節で、次の1916年ベルリンオリンピックに向け脇目も振らず猛特訓中の姿が描かれる。

しかし第一次世界大戦の激化により、前年の1915年にはオリンピックの中止が決定してしまい、ここまでの訓練は水の泡と化し、四三は失意のどん底へと落ちてしまう。
ピークとは、人生で一度きりしかこないからこそピークと呼ぶ。四三は、選手生命のピークポイントをオリンピックには当てることができなかった選手なのである。

この回のブログでは、歴史上有数の被害影響があった「第一次世界大戦」についての事の起こりや戦況について、掘り下げている。


◆第17回「いつも2人で」5/5放送

ベルリンが中止になり落ち込む四三のもとに仲間やスヤが駆けつける。スヤの存在は大きく、スヤがいなければ四三はここで腐っていたかもしれない。

讀賣新聞の記者たちに連れられて浅草十二階に登った四三と治五郎は、窓の外の風景を眺めながら、ふたりして“次の目標”を見つける。

四三たちは、窓の外に富士山を見たときに、東海道五十三次を連想して“マラソン大会と五十三次の宿場町を繋ぐアイデア”を発想して盛り上がる。
四三が「駅伝」を発案普及させるのである。

治五郎は、眼下にのちの明治神宮外苑となる森を見つける。治五郎は「決めたよ」と言う、「競技場をつくる」と。
この競技場は1924年に建設され、のちの1964年東京オリンピックでは「国立競技場」となり開会式が行われる。

四三は、1917年、日本初(世界初?)の駅伝発祥である「東海道五十三次駅伝」を『奠都五十年奉祝博覧会』という催し物の一環で立ち上げ、無事成功させる。
四三は、この企画の中心人物となり、自らアンカーとしても走りゴールテープを切る。

失意のベルリンの先で、四三はついに新たな目標とやり甲斐を手繰り寄せた。


◆第18回「愛の夢」5/12放送

この回の四三は、日本中をかけめぐる長距離マラソンに何本も挑戦している。

この時期の四三は、日本マラソン界の発展のために、マラソンの認知やファンの育成やランナーの増加のために日本全国を走っている。テレビというマスコミがないので、直接、日本中を走るのが一番の宣伝になるのだろう。
どこの町にいっても沿道を人が埋めるほどの応援で、この時期の金栗四三は相当の有名人で、“人が集められるタレント”でありながら、“協賛が集められるメディア”でもあった。

それにしても働きすぎ、走り過ぎである。
何かを吹っ切ろうとするかのように走る四三。胸の内ではベルリンの後悔がぬぐえておらず、金メダルの夢をまだ何も捨てていない。

スヤにどうしても金メダルを見せてやりたい。四三は日記にこう記している。
「スヤの励ましと支援に応えるに金メダルほど相応しきもの無し。スヤは要らんと言うが、何としても金メダルを獲らねば、スヤの苦労が報われん。」

◆第19回「箱根駅伝」5/19放送

この回は、四三たちによる1919年の「箱根駅伝」の立ち上げの物語だ。

ベルリン以降、日本中を走り回りマラソン普及にチカラをいれたり、駅伝大会を創設したり、獅子奮迅の大活躍だった四三の集大成が「箱根駅伝の創設」である。

同時に、もうひとつの世界、1963年の世界では志ん生たちが「駅伝落語」を寄席にかけている。ひとつの話を落語家が交代しながらタスキを渡しながら、10人でひとつの落語話を話す仕組みだ。
この「駅伝落語」のメンバー構成に、飛び入りで“金原亭馬生”“古今亭志ん朝”という、志ん生の実の息子たちが参加する。

初めての「箱根駅伝」では、四三の教え子の後継者たちがレースに挑戦し、何名かがのちのオリンピアンへと育っている。
四三は駅伝を育成機関にも活用していたのである。

「箱根駅伝」と「駅伝落語」、どちらも“次の世代へとタスキをつなぐ”のである。


◆第20回「恋の片道切符」5/26放送

この回は、1920年のアントワープオリンピックの回である。

ブログでは、1912年のストックホルムと1920年のアントワープの両オリンピックで、日本人選手たちの環境がいかに変化・向上しているかを分析してみせた。

金栗四三はこの時点で“日本人唯一の二大会連続のオリンピアン”であり、唯一、オリンピックの恐ろしさを知っている。
1912年の一番の恐ろしさは「孤独」であった。
その“恐怖”を知っているからこそ、金栗四三は、1920年のアントワープでは、常にリーダーシップをとり、選手ひとりひとりに声をかけ、大丈夫だ落ち着いてと勇気づけ、笑いかける。

8年ものあいだ日本スポーツの発展のために身体に鞭打ち走り続けてきた金栗四三は、その無理もたたり、16位というふるわぬ成績でアントワープを終える。

(おわり)

※他の回の分析はこちら↓


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