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大河「いだてん」の分析 【第30話の感想②】 “ラジオの歴史”とオリンピック

いだてん第30話の感想その2です。第30話では1930年ロサンゼルスオリンピックでの熱戦が繰り広げられたが、その競技結果を日本に放送する手段として“ラジオ放送”が描かれた。
“産ぶ声をあげたばかりのこの時代のラジオ放送”についてまとめておく。

※全話の感想書いてます。他の回の感想分析はこちら↓


1、ラジオの歴史は“NHKの歴史”

大河ドラマいだてんの放送局はNHKだが、NHKの前身はラジオ放送局である。テレビ放送がまだなかったからだ。
つまり、NHKは“自らの会社の起こり”を、はじめて大河ドラマ内でとりあげていることになるのではなかろうか。

さてまず先に、かるくラジオの歴史を振り返ろう。

1923年、いだてんでいうと第23話に、関東大震災は起こった。
この未曾有の災害に際して、日本国内には新聞以外に“広く国民に情報を知らしめるメディア”がなく、東京中に正しい情報を伝える手段が乏しく、口頭伝達による情報収集しか手がなかったためデマも飛び交ってしまい混乱を招いていた。
金栗四三が行方不明のシマを探しまわる場面でも、あちこちの建造物に「探しています」という張り紙をとにかく貼り回っていたが、ああいう方法しか手がなかった。効率は悪い。

この頃、新聞はもうすでに全国紙を発刊するほどの広がりを持っていたが、被災で新聞本社が壊滅。本拠地を失い、発刊機能が回復するまでに数週間の時間を要した。配送インフラがなくなり、物理的な新聞配達能力も震災直後は失ってしまっていた。

ラジオという技術は、すでに1920年にはアメリカで商業放送が開始されており、各国にその技術転用が進みはじめていた。日本でも、今のNHKの前身にあたる社団法人日本放送協会は1926年に設立、ラジオ放送局を開始していたが、ラジオ機材が高級品であったため広く民間人に浸透するのにはまだ時間がかかっていた。

2、街頭ラジオ、その名も“ラジオ塔”

数十年後のテレビの普及期にも同じ歴史を歩むのだが、ラジオ放送も当初は“街頭ラジオ”が街につくられた。“ラジオ塔”と呼んだそうだ。下記が画像。変な形。
説明をWikipediaから引用する。

ラジオ塔とは、ラジオの普及を目的として公園などに設置されたラジオ受信機を収めた塔である。正式には、「公衆用聴取施設」という。
1930年6月15日、大阪市天王寺区の天王寺公園旧音楽堂跡に初めて設置した。
その後1943年までに450箇所以上整備された。

主には非常時のインフラとして整備されたようだが、このころにもラジオ体操の文化ははじまっていて、ラジオ塔を囲んで地域でのラジオ体操もあったようだ。

3、ラジオの強み、新聞の強み

いだてんに話しを戻そう。
1932年のロサンゼルスオリンピックでは、“実況放送”がアメリカに禁止されてしまった。実況中継をしたらチケットの売れ行きが悪くなるからだという。その経緯を説明するためにドラマ内では下記の映像が流れた。

この頃、NHKは愛宕山にあった。だからここに書いてある愛宕山演奏所というのが、NHKのことだ。

“生中継ができない”となって、ただの“事後的なニュース報道”になってしまうと「新聞には勝てない」という。
ラジオは、ライブ中継のスピード感とリアリティが強みなのに、スピードを失うと、“耳でしか聴けない”ぶん、「実際の競技の模様の写真をたくさん使って視覚に訴えてくる新聞」のほうが臨場感があるという。
その対抗策として生まれたのが今回いだてんでもとりあげた“実感放送”である。

“視覚に訴える強さ”が新聞にあるとは。
新聞にそんな力があるなんてあんまり考えたことなかったが、でもたしかにラジオよりはビジュアル表現はできる。

“ラジオの速報性”と“新聞のビジュアル性”と両方の特徴を併せ持つメディア、すなわち「テレビ放送」が民間に広がっていくのは、ここからまだ20年先、1953年のことである。

1953年
NHKがテレビジョン放送を開始。
日本テレビが初の民放としてテレビジョン放送を開始。
12月31日、第4回NHK紅白歌合戦がTVで初放送。

4、各時代の最新技術を駆使したメディアを学ぶ

日本人選手が初めてオリンピックに出場した1912年は、試合結果を知るのに数日を要した。

1920年代になって電報が使えるようになり、1930年代にはラジオが登場する。

その時代時代に発明されている最新技術を駆使して速報性や“実感”性を追求し、競技の熱戦を伝える。いだてんを通じて、近代メディアの歴史を学んでいるのである。

(おわり)
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