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大河「いだてん」の分析 【第29話の感想】 夢の原点、ロサンゼルスオリンピック

第29話は1932年ロサンゼルスオリンピックの回である。いだてんの中では6回目となるオリンピック(中止の1916年ベルリン含む)。今回も感想と分析を書き留めておきます。

※全話の感想分析を書いてます、他の回の感想分析はこちら↓

〜第29話「夢のカルフォルニア」のあらすじ〜
いよいよロサンゼルスオリンピックが開幕。日本水泳チームの総監督として現地に乗り込んだ田畑政治(阿部サダヲ)は、広大で美しい選手村で各国の選手たちが交流する姿を見て、これぞスポーツの理想郷と感激するが、その一方で日系人差別も目の当たりにするなど複雑な思いも抱く。全種目制覇を絶対の目標とする田畑は、本戦に出場するメンバー選びで非情な判断を下し、高石勝男(斎藤 工)ら選手との間に軋轢あつれきを生む。田畑の執念は実を結ぶのか──。


1、夢の原点となるオリンピック

1932年時点で、1898年生まれの主人公、田畑政治は33歳になる。
彼にとってロサンゼルスオリンピックは、初めて自分自身も現地入りを体験できたオリンピックとなった。若くして日本水泳チームの総監督としての参加。初めてのオリンピック、そして初めてのアメリカに、田畑は興奮する。

このオリンピックから初めて“選手村”がつくられるようになる。広く広大で美しい選手村に、練習会場。カルフォルニアの過ごしやすい気候と、自由でカジュアルな風土。そこで繰り広げられる各国選手団との異文化交流や、切磋琢磨する練習風景に、田畑は魅了される。

今話を観るまでわかってなかったけど、
田畑にとってロサンゼルスは“夢の原点”になったのだと思う。

その後の大きな世界大戦がやってくるほんの少し前の、国際平和の理想郷。スポーツという共通価値を通じてこそ実現する国際交流。それと田畑個人として“初めての参加”だったことによる高揚感の記憶。

この“田畑の興奮”が、ミュージカル風ダンスで表現される。
大河の常識にとらわれないNHKの挑戦的な演出だ。

公式ツイッターにダンスシーンだけの短い動画があがっていたのでリンクする。


天狗倶楽部と同様にダンス振付はコンドルズの近藤良平だろう。
別に特別“見たこともない斬新な演出”というわけではない。唐突にミュージカルっぽい要素が折り込まれる方法論は、すでに演劇界では常識的だし、テレビドラマでもしばしば目にもする。ただし、堅く伝統的な大河ドラマにおいては異端で挑戦的なわけだが、誰が大河は踊ってはいけないと決めたのか。
すでに保守的な既存の大河ドラマ視聴者はいだてんについていけなくて抜けているんだろうから、このミュージカル風ダンスの登場に、ワクワクしたりニヤついたり、自然に受け入れた視聴者が多かったのではないだろうか。これでこそ大河の新規開拓と思う。

田畑にとって、この1932年のオリンピックが“忘れられない大会”となったことが想像できる。
「あのオリンピックをもう一度」と思い描く時の原点が、ロサンゼルスなのではないか。
田畑が自国開催の東京オリンピックを経験するのは、結果的には65歳。30年後。
“日本国民に再び、笑顔と希望と明るさを。”
1932年の成功体験が、のちに田畑たちの東京オリンピック誘致の原動力へと育っていく。

2、日本中を“スポーツで明るくしたい”

メダル至上主義が強すぎる田畑の方針に、水泳日本選手団は猜疑心を持ち始める。この人は選手をなんだと思ってるのかと。「一種目モ失フナ」と書いたスローガンは何度も破り捨てられる。

特にチームからの反発が強まる背景には、長らく選手団のけん引役であった年長者組の高石(斎藤工)や鶴田(大東駿介)らを田畑が無情にも代表からはずすスタンスであったことで、「花道をつくってやりたい」という仲間たちの思いと、田畑のメダル絶対主義とが相反し、チーム全体のムードの悪さにつながっていた。

第29話の終盤、監督の松澤一鶴(皆川猿時)が、田畑に「どうしてそんなにメダルに固執するのか」と問い詰めたシーンで、田畑は「笑うなよ」と前置きしたあと、「日本中を明るくしたいんだ」と告白する。
「そのためにはメダルにこだわるのが重要なんだ」と。「前人未到の全種目制覇が叶えば、新聞の一面を飾り号外が沢山出て、日本中の日本国民が高揚し盛り上がる」「号外ももうつくってきたんだ」と田畑は言う。あとは結果を埋めるだけなんだ、と。

背景には、前回放送の感想でも書き留めたように、1930年代にはいってからの“日本の暗いムードと閉塞感をどうにかしたい”という思いがあるという。犬養首相襲撃の五一五事件以降、新聞記事は不穏な話題ばかりだからと言う。

田畑は、最期の犬養毅と対話した時に「スポーツはいいな」と言葉を託され、元同僚の河野一郎が政治家に転身する告白を受けた時に「スポーツを任せた。スポーツが元気なうちは国は大丈夫だ」と意志を託され、田畑は田畑なりに“自分たちに何ができるか”と相当考えたのだろうと想像できる。
田畑は「スポーツで国民を明るくしたい」という目標に責任を感じているのだと思う。


3、スポーツの力は、国を越える(はず)

過去、第26話の感想分析を書いた時にも僕は触れたのだが(下記のリンク)、オリンピックの心配な点は、ナショナリズム思想だ。国同士が戦うシステムなので、どうしても「他国を打ち負かす」という思いと同時に「自国への愛」が強くなる仕組みを内在している。

田畑は「オリンピックで勝って外国勢を打ち負かすことで、日本国民に笑顔が取り戻せる」と純粋な思いで目標に掲げるのだが、それは大陸侵攻論の戦争賛歌と“精神構造”は限りなく似ている

いや、いきなり自己否定するが、似て非なるものだ。似ているが似ていない。
犬養毅は遺言でこう言った、「スポーツはいいな、スポーツは勝っても負けても清々しい」と。その通りだ、スポーツは戦争ではない。戦争を戦争にしないための代替行為にもなりうるものだ。そうあるべきだからこそ、オリンピックは第1回からスローガンは『平和の祭典』なのである。嘉納治五郎も“オリンピックが持つ国際平和のチカラ”に感動と共感をし、情熱を注ぎ続けている。

それでもなお、スポーツは、政治と戦争に利用される。

でもいだてんは、きっと、「スポーツは戦争とは違う」と最後に明示的に示してくれるだろう。それを期待して最後まで鑑賞を続けたいと思う。それはどういう形で示してくれるだろうか。

ひとつ、今回の第29話を観ていて思ったことがある。些細な事だが。

1930年代のアメリカでは、現地に住む日系人たちは影で差別を受けていて、オリンピックの練習会場の門番を任されている黒人たちにも差別が残っているという歴史背景が見え隠れする。
白人による白人主義。同じプールには白人しか入れたくないというような意識も白人たちには色濃く残る時代である。

毎夜隠れて深夜遅くまで練習を繰り返す日本選手のベテラン勢、高石に鶴田たち。
その泳ぐ音を毎日毎日静かに聞いて見守っていた門番の黒人が、最後のシーン、選考会の会場に姿を見せて、高石たちに「You can do it! You can do it!」と叫んで応援をする。

人種を越えたエール。国を越えた応援。

“スポーツの力とは何か。オリンピックの国際平和とは何か”と問われる時、このシーンには、そのひとつのヒントがあったのかもしれないなと感じさせてくれた、第29話なのであった。

(おわり)
※他の回の感想分析はこちら↓


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