たぶん天使が

頭のおかしいふりをしている。

立春の前夜、外は雨を含んだ甘い風がビュンビュン吹いていた。
向いの団地一帯と私の住むアパートのさかいには、冬が深くなってすっかり元気をなくした常緑樹と、何か言い訳するみたいにぽつぽつと桜の木が植わっていて、その日はみんな一斉に、かさかさの葉っぱと年老いた腕見たいな枝を震わせて、浮かれ騒ぐみたいにザワザワ大声をあげていた。


私の部屋は代官山の隣町で、それ以外になんと形容することもない、なんの変哲も無い住宅街だった。ちょっとした坂の上に建つアパートの二階で、1Kの角部屋。窓ばっかりたくさんあって、三つの小窓とはき出しの大きな窓があった。朝は窓からの光で日が昇る前に目がさめる。小さなベランダに出ると、眼下に渋谷の街の光がチラチラと見えた。その度に私は、なぜか少し得意げな気持ちになった。
この街で一人で暮らしていく決断をして、仕事も決めて、準備もままならないうちにこの場所に転がり込んだ。生活に必要な道具はベッドぐらいしか揃っていなかった。それでも私は、ここで暮らしていけると思っていた。
一人暮らしなんてろくにしたこともなかったけれど、最初のうちは、週末二日の休みのうち、一日は寝て過ごし、もう一日は掃除と洗濯と料理をした。別れていた恋人も戻ってきて、生活に必要なものも少しずつ増えていった。


私の仕事はいわゆる普通のOLだ。よく言えば、何かを成し遂げようとする人たちの手となり、足となることだった。仕事は楽しかった。内容は雑用でも、自分の好きな業界に足を踏み入れたのだから。帰ってきても仕事のことばかり考えていた。恋人と一緒にいてもそうだった。仕事のことしか頭になかった。
仕事場での私は、新人らしく、いつも明るく、元気に、謙虚に振舞っていた。
与えられた課題には全力で取り組む。それは大小関係なく、コピーを取ることにだって全力だった。
周りの人からも期待されていた。同期の中でも一番の成長株だと言われていた。嬉しかった。嬉しくて、なんでもできるような気がした。
いつしかそれを本当の私みたいに思うようになって、まだ駆け出しで本当は不安な顔をしてたのに、その上に張り付いた笑顔がびっちりこびりついて剥がれなくなっていた。

日に日に忙しさが増していった。会社にいる時間がどんどん増えて、ひと月に三日しか休みが取れなくなり、一日に二時間しか眠れない日もあった。そのうちに睡眠不足で頭が働かなくなった。自分の完璧主義が仇となり、ちょっとした作業にも時間がかかった。残業代は、働けば働くほど所得税で天引きされて少なくなる。今になって思えば、たったそんなことで、と思うけれど、私を突き動かしていたやる気も「たったそれだけのことで」たやすく摘まれてしまった。



ある日、とうとう私は動けなくなった。
数日間寝込んでいる間、恋人が私の世話を焼いてくれていた。そのうち、体調が回復するよりも先に、頭だけはしっかり働くようになった。むしろオーバーワークするように急速に回転する。


早くここから出たい、早く、早く


その日は、立春の前夜で、湿気を含んだ甘ったるい風がドンドン窓を叩いて私を急かした。

いつものように、恋人がシングルベットで私の場所を空けて眠っていたのに、それをまともに見ることもしないで私は勝手に闇の中に飛び出してしまった。

寒くない。
むしろ熱いし、ぬるい風は気持ちよかった。
動いていないと気がおかしくなりそうだった。

身体が熱い。
ずっと寝ていたせいか、寝る前の下痢と吐気のせいか。

私は向かいの団地をさまよい歩いた。
止めてある黒い車がこっちを睨んでいる。

両脇に続く駐輪場は不吉な花道みたいだった。
青白い光とまばらな参列者。蛍光灯と自転車。錆びたアーケード。
猫がいる。サドルの上。
なにやってんだと睨まれた。
私、死に場所を探している。

これ以上誰かに迷惑をかけて、嫌われていくだけなら、
死んだほうがまし。


安定した金を稼ぐために、それなりの勉強をして、とりあえず世間に示しをつけるために資格を取って、
毎日、ベルトコンベアみたいに流れてくる患者を10分くらいで要領よくやっつけていくだけの、イシャって人たち
薬を押し付けられたけど、飲む気もしなかった。
だって飲んでも治らないから。
私は頭のおかしいふりをしているだけなの。
本当はどこもおかしくないんだ。

どこかに行きたいってベッドの中で思う。
本当は神経衰弱して体力も落ちているからどこにも行けない。
でもどこかに行かなきゃと思う。
見知らぬ人の視線に晒されるのが、とても苦痛。
だけど街がいろんな人で賑わっていると少し安心する。
出かけた先で店員にそっけなくされるだけで傷つくし、
そのことで頭がいっぱいになってその日1日嫌な気分で終わることもある。
そんなことなら外出しなきゃいいのに
それでも家に居続けることができなくて、体調もすぐれないのに外に出てしまう。

誰かが遠くで騒いでる。
遠く遠くで。
奇声をあげてる。
多分渋谷あたりから聞こえる。
そんなに大声をあげて、ここまで響いてくるなんて、よっぽど楽しいんだね。
それともただの風の音かな。

感じやすくなって、色々なことがわかるようになったらしい
これでなにか新しい能力が備わっていたらいいのに。

救われたいとも思わない。
むしろもう、ギブアップしたい。
ここで、全部終わりにしたい。


そのとき、恋人に名前を呼ばれて我に返った。

私は自分の部屋の前でうずくまっていた。


フラフラしながら部屋に戻って、
ベッドではなく床に寝ころがった。
電気を消して、何を見るでもなく目を開けていた。
完全な闇すら私を包んでくれない。

いつも死にたい、じゃなくて死ななきゃと思う。
私の寝床はいつも私のものだけど、いつも誰かに占拠されていて
夜、私は眠れないままに床に寝転がっている。
車のヘッドライトが、見慣れたワンルームの小窓を照らすのを待っている。
曇りガラスが何度かぼんやりと、きらきら光って、ゆったり同じ動きをして去っていく。

ユニットバスの蛇腹の戸が半開きになって、闇が隙間からのぞいている。
不思議と全然、怖くなかった。
奥の玄関から不気味な幽霊が床を這ってあらわれるんじゃないか。
あらわれて、私をどこかへ連れて行ってもいいよ。



生きることも死ぬことも同じ。

夢の中でたぶん天使がそう言った。
そんなに簡単に言わないでよ。

でも、その時もう私を追い詰めるものは消えてた。


鈍感な人たちが今日も平気で生きてる。
私も人間らしく、いびつな自分の歪んだ骨格を優しく撫でる努力をしよう。


救われなくてもいい。
虚無感が私を知らないところへ連れ去ってもいい。
でもせめて私に優しくしてくれる人には
私も優しくしたい。
彼らは私の病気に対してなんの責任もないから。


信用できない医者から渡された薬も、今日はきちんと飲んで眠ろう。
苦しめば苦しむほど、
私は生に向かっていく。


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