櫻坂46『Cool』感想。

櫻坂46、5thシングル『桜月』がついに発売。その中で最もピンときた楽曲『Cool』についてのアレやコレを少し書き残しておきます。

まず、シンプルな話。
MVのビジュアルがめちゃくちゃ好みでした。性癖すぎる。観ていてとても楽しいのが本当になにより。

舞台は薄暗いアメリカンダイナー(的な施設)。それ自体に内包されている明るい前向きなイメージと、MV冒頭に流れる陽気なラジオのナレーションが全体の閉塞感をこれでもかと際立たせている。そんな中、1番サビ前付近、宇宙服を着た本作のセンター(=主人公)大園玲が登場するあたりから画面全体に「動き」が生まれていき、2番以降、無秩序的な表情、ダンスパフォーマンス、派手な衣装、さらには二次元アニメーションまで用いた現実と虚構入り乱れる形で、彼女たちの「解放」が描かれていく。

あまりにCoolでカッコイイ!

歌詞の内容については欅坂46時代からのもはや十八番ともいえるヤツで、他者とどう向き合っていくべきか、と葛藤する若者が描かれます。いつもどおりと言えばいつもどおり。もちろん、嫌いじゃないです。

そして、全体をひとまず摂取したときに持った印象といえば、センターが大園玲であることやその内容を加味したうえで『エキセントリック』(欅坂46)との比較を中心に楽曲を捉えてみるのがオモシロそうだ、というものでした。『エキセントリック』もまぁそんな雰囲気の楽曲ですが、しかし、それぞれが提示する考え方や、それを表現するにあたって用いられる演出・アイテムの差異が結構あって、それを見ていくのがかなりオモシロそう。

今回はそういう着眼点をベースに、自分が『Cool』を頭の中で転がし回して遊んだ話を整理したいと思い、筆を執る運びになりました。それでは早速行ってみましょう。

(※大園玲と『エキセントリック』の関係については割愛。)

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まずは舞台と人物設定の確認から。

『エキセントリック』のMVにおいて、閉塞的な雰囲気を提示する舞台は「学校」で、登場人物の立場は「学生」でした。対して『Cool』は「アメリカンダイナー」を舞台とし、登場人物の立場はその「従業員」。そして最序盤に強調される純日本的なアイテム「ルーレット式おみくじ器」(しかもめちゃレトロ)など見るに、『Cool』のMVで描かれる「アメリカンダイナー」はそれソノモノではなく、模造された「アメリカンダイナー」風の設備だと推測できます。その差異はメンバーの年齢変化に合わせた形を取っていると表面的に捉えても良いし、別の視点でも消化できそうな雰囲気がある。

一旦置いておき、次は閉塞感の「解放」について注目してみましょう。

『エキセントリック』では「解放」に関する要素として「学校の外側」が頻繁に用いられます。主人公たる平手友梨奈は靴を片方だけ履いて車道を闊歩するし、「学校」のシーンにおいても窓の「外側」を意識させるカットが点在する。閉塞的な「学校」と解放的な「外側」という対立が描かれるワケ。

一方『Cool』は終始「アメリカンダイナー」の内部でMVが構成されます。窓にはご丁寧にカーテンがかけられていて、物理的に外側の世界を意識させる要素はほぼ無いと言っていい。「宇宙服を着た大園玲」からは辛うじてそれを推測できるけど、気付いたらそこにいるという描き方をしている以上、できるだけ外側の世界を見せないように作っていると感じます。

では『Cool』では閉塞的な「アメリカンダイナー」にいる登場人物を「解放」に向かわせる要素として何を提示するのか。それは「宇宙服を着た大園玲」と、アニメという「虚構」なのです。

1番が終わり、「宇宙服を着た大園玲」がそのヘルメットを脱ぎ、メンバーがアニメを見ることを起爆剤として「現実」と「虚構」の境界が曖昧になる……というより、(MVを見ている僕らが)「現実」だと思っていた視点は「虚構」の一つという立ち位置に昇華されていきます。統一されたウエイトレス衣装で踊るシーン、個別の派手な衣装で踊るシーン、アニメのキャラが踊るシーン、舞台に植物があふれるシーン、舞台に大園玲ひとりしかいないシーン等々、それらすべてが一枚一枚のレイヤーで、表示/非表示のボタンをカチカチしているような感覚を僕らに与えながらMVは進んでいく。相互的に作用するシーンも目立ちます。

そして、すべてが妄想でしたというオチのようなものを付けつつも、アニメキャラと植物の混在した無秩序なアメリカンダイナーを引きで映してMVは終わっていく。最終的に、もはや確固たる「現実」という地盤が消滅してしまうのです。「虚構」が入り混じったあやふやな世界に至ることで、『Cool』の主人公たる大園玲は冴えない占い結果を見ても不満げではない、という着地をする。

さて、着地という点で『エキセントリック』はどうか。こちらのMVは主人公である平手友梨奈が外で一人きりになるカットで幕を下ろします。『エキセントリック』についての詳しい話はここでは省きますが、他者の否定を徹底することで得られる帰結というのはまぁそんなところだろう、というのが先日久しぶりにMVを見返したときの感想でした。

僕は普通と思っている

『エキセントリック』 欅坂46

ここまでは良い。MVやパフォーマンス内に含まれる現代アートチックな訴えかけもすげえ好き。

みんなこそ変わり者だ

『エキセントリック』 欅坂46

でも、これはやはり好ましくない考え方でしょう。過剰なコミュニケーションで息苦しさを感じるこの社会において、ある程度そこから脱線することはとても重要だし肯定していくべきだとは思うけど、とはいえやはり、そのやり方は慎重に考えるべき。自分という存在を大切にするにあたり、他者を否定して戦争を始めるか、接触そのものをばっさりと拒否してしまうというアプローチは、今考えてみるとなんというかとてもワガママで子どもっぽい(いやまぁ年相応という気もしますけども)。

そういう欅坂46時代を経ての櫻坂46が表現する楽曲は、そこから一歩進んだ考え方を提示するものが多いという印象があります。直近で言えば『摩擦係数』の歌詞なんてまさにそのものストレート。そして、それを踏まえての着想でしかないけども、『Cool』のMVが提示する考え方もこの系譜の一つではないかなと思いました。

自分が持つ確固たる「現実」なる考え方を緩めて、この世界は「虚構」の集合でしかないという捉え方をしてみよう。それは自分の見ている「現実」が絶対的な正しさを持つものではないという前提に立つことであるし、そうなって初めて自分と他者を並列に扱うことが可能になる。これこそが他者と柔軟に関わるポイントなのではないか。自分が今まで持っていた確固たる「現実」だって「虚構」の一つなんだから、であれば、カッコつけたって別にいいじゃないの!!

ああ
だから カッコつけさせてよ
もう真実の僕なんか どうだっていいじゃないか?

『Cool』 櫻坂46

なるほどラスサビ前の歌詞はそういうことか?幾分こじつけ感もあるでしょうが、自分的には納得いく咀嚼ができました。線で見るオモシロさが今回も炸裂しているなと感じました。

しかしまぁ、ここまでの流れを踏まえて改めて『Cool』のMVを見てみると、妄想膨らむ要素がぽつぽつと浮かんできます。

「アメリカンダイナー」と「宇宙服」というアイテムについて。これらは「外側の世界を手に入れるもの」のメタファーとして考えられそうです。「アメリカンダイナー」は西部開拓時代が発祥だし、「宇宙服」はもちろん宇宙へ行くために必要な服。それを模造したり、脱いだりする。いや、外側の世界を手に入れる(=他者をわが物にする=他者の否定)じゃねぇだろと。そんなイメージができる。

カーテンまで閉めて外の世界を見せないのは、今ここ以外に世界は無い、逃げ場なんか無い、この中で自分が変化していくしかない、解釈を変えていくしかない、そういう捉え方ができそうで、これはとても現実的。

そして、そんな世界に変化を促す舞台装置である二次元アニメーションは、自分とは異なる存在=他者をカリカチュアした形でしょう。こちらがアニメの世界を覗きこみ、アニメ側もこちらの世界を覗いている。両者のどちらかが正しいモノとかそういう話ではなく、それぞれ影響しあうし、混ざり合う。

なんといいますか、現代哲学感ありますよね全体的に。

『Cool』、とても好みな作品です。
ざざざと書いてきましたがひとまずこれにて終わりです。

(自分の都合イイようにアレコレ当てはめてるだけやろがい、とも言えるけど、いつも申しているように、コンテンツをどう咀嚼しようが自由ですからね。僕はこう思いましたということでここはひとつ。それでは。)

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