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「替えのきかない人」に、僕はべつになりたくはない

よく「替えのきかない人になろう」と言われるけど、それは本当に幸せなんだろうか。僕は強く疑問に思う。


「替えのきかない自分」を求めても、今までの社会と何も変わらない

先日、とても冷たい雪の降る日に体調を崩してしまった。翌日はカフェのシフト。お願いしてお休みをもらった。

コーヒーを淹れ、ケーキを盛り付け、席まで運ぶ。僕の仕事は誰でもできることだ。替えがきくからカフェを休めた。きかないなら休めなかった。「替えがきかない」って本当に幸せだろうか。もし替えがきかないなら誰とも分かり合えないから、孤独だろうな。

「替えのきかない人になる」って、「飛びぬけた能力がある」ということだ。僕らはそれを指して「替えのきかない」と言う。じゃあそこには競争が発生する。飛びぬけたNo1になるための、無限の競争。

そうして競争に巻き込まれる。あるいは「私は他の皆さんとは違う!」というアピールに終始する。「替えのきかない」ことが今の時代を生き延びる要件みたいに言われるけれど、その中身はこれまでの競争社会と同じじゃないか。

替えがきかないからすごい。替えがきかないから必要だ。それじゃ結局、いつまでも条件つきの受容じゃないか。

僕らは何をほしかったのだろう。


「替えのきかなさ」でほしかったのは安心感

何がほしいのか、もっとはっきりさせたいと思う。それはやっぱり「生きていける安心」じゃないだろうか。

替えがきかない。だから必要とされる。必要とされるから生きていける。その自信、確信、安心。「僕は生きていけるのか、大丈夫だろうか」なんてもう考えなくても良い、その状態。

それがほしくて、「替えがきかない」存在になりたくて、競争を始める。ここに罠がある。

生きていける、大丈夫って安心したくて唯一無二を目指そうとする。唯一無二なら常に必要とされるから。それはそうなんだけど、でもそれだと常に唯一無二を保っていなくちゃいけなくて、その緊張感は消えなくて、緊張と安心は反対で、求めている安心は実は手に入らないように思う。

それよりも、唯一無二であろうがなかろうが関係ない、ともかく生きていける、自分は大丈夫さって、唯一無二だろうがそうじゃなかろうが良いのさって思えることの方が良いんじゃないか。

人と同じじゃ生きていけない。だから違おうとする。そうじゃなくて、同じだろうが違かろうが、それは関係なく生きていける。そういう段階に行くべきだと思うんです。

だってそうじゃないですか。同じだろうが違かろうが、僕らは生きていける。人と同じか違うかって、僕らが生きていく条件にはならないはずだ。

替えのきかなさ、じゃなくて、本当は生きる安心を得たいんだよね。世にも珍しい唯一の宝石が欲しいんじゃなくて、安定して支えてくれる土台がほしいんだよね。

働き方の本を読んで話を聞いて「替えのきかない存在になることが必要なんだ!」と信じたあの頃の自分にかけたいのは、そんな言葉。

ここに書いたこんなことを、僕は今、カフェの仕事から学びつつある。


この人たちがいっしょにいるから、僕は力を抜いたって大丈夫なんだ

見えない背中を任せられる。いっしょにやっていると思える。自分で何もかもやらなくていい。替えがきくから思えるそういうこと。僕が今カフェで感じているこれは、きっと「安心」「信頼」にすごく近い。

信じられて任せられるこの気持ち。それをもてたことが幸せなんだなと思う。

思えば僕は10年教員をしてきて、この意味で「信頼する」をしたことが無かったのだろう。言葉では「子どもを信じる」「子ども達が力を解放できるように」と言っていた。でも担任をしていて、責任者が自分だけと感じている状況で「自分の目が届く範疇に物事をおさめておきたい、コントロールしておきたい」という気持ちをもっていた。

最悪は自分でなんとかする。自分の予想も想像もつかないアイディアを子ども達が出してくれたら楽しいけど、「想像もつかないアイディアが出るように」物事を展開させている自分がいて、「想像もつかないアイディア」すら結局は自分の想定する範囲内でのこと。

だから僕は教員をすることで、人間不信を深めていたように思う。相手に任せているように演じて、実は自分が全てなんとかするつもりでいる。その繰り返し。

カフェで働いて、互いに互いの仕事をできる状況で、替えがきくこの場所で、「僕が全てなんとかしなくたって、コントロールしなくたって、この人たちがいるから大丈夫」って、そんな感覚を初めてもてている。

誰でもできることで良い。それを偶然ここに居合わせたあなたと私とで行って、そのやり取りが重なって、あなたと私だけに分かる言葉が、時間が、関係ができ上がる。だから能力より、そんな関係性こそが嬉しい。

顔も名前も知らない人から「あなたは替えのきかない人だ」と言われたって、それは能力を見ているだけだ。それよりもたった一人あの人から「あなたとの時間が大切だ」「あなたとならこんな話ができる」と言われたなら、それだけで十分じゃないか。

あらためて、本当にほしいのは能力じゃないなあと思う。この人の前でなら、この人たちの中でなら、力を抜いてもポンコツでも、何を話しても大丈夫なんだなって思えること。


安心感とは、存在が受けとられる関係性のこと

あらためて「安心」の正体を考えてみる。そういえば以前こんな記事も書いていた。

安心とは、能力じゃなく関係性だ。でも僕は安心を求めて「能力」を高めようとしていた。簡単に言えば頑張っていた。

頑張ることで自信のない自分を支えている。自分には何もないと思っているから、僕にできることは頑張ること。量を増やし、速さを増す。自分は頑張っている。「頑張っているよね」と、人には言われたくないけれど。

頑張っていることが自分の支えで、だからやり方を変えてと言われるとぐらついた。頑張らなくていいよと言われるとどうして良いか分からなかった。近くの人には「頑張らなくてもあなたは大丈夫だよ」なんて言葉をかけるのに、人にはかける優しい言葉を、僕は自分にはかけることができない。

だから力を抜く経験、今ぼくがカフェの仕事で感じていることはすごく大きなことなんだ。

能力じゃなく、関係性=存在として。能力は替わりがいたっていい。

関係性=存在。あなたのことが大切だよ。影響をうけているよと伝えること。関係性の中に「替えのきかなさ」がある。あなたと私。なのに僕らは能力を見がちで、すぐ仕事やお金につなげて話をする。

関係性=存在。もし失ったら、その分ちゃんと傷つくこと。スキルを磨く、とかより、あなたと私だからできる話を誠実に丁寧に重ねること。特別すぎてきっとSNSにも載らないような話を、誰も知らない良い夜を何度も何度も重ねていく。

もし「替えのきかなさ」を求めるのなら、こういう意味でこそ、僕はそれを目指したい。


能力だけを見て言う「替えのきかない人」に、ぼくは別になりたくはない。それよりも何よりも、あなたとの関係性があるからしあわせだ。今それ以上の気持ちはないさと、そう僕は思っている。

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