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第48講米津玄師「さよーならまたいつか!」〜作品との共通項と「春」のモチーフの真意を探る〜

NHK連続テレビ小説『虎に翼』のテーマソングになった米津玄師さんの『さよーならまたいつか!』
朝ドラらしい明るい曲調の中にも米津玄師さんらしさが滲む曲調に、一発でファンになりました(笑)
さて、曲調もさることながら、毎度のこととはいえ、歌詞のワードセンスに惹かれるものがありすぎるこの『さよーならまたいつか!』
「春」というテーマや、そもそもタイアップ作品が『虎に翼』というタイトルということで、僕なりに感じたことがいっぱいあったので、今回はその辺りをまとめていきたいと思います。


『虎に翼』というタイトルから作品の結末を予想する

さて、本来なら歌詞考察ということで原作の考察は必要ないとはおもうのですが、個人的にはこれがこの歌詞の解釈には必要なんじゃ無いかと思ったので、少しだけ作品に触れさせていただきたいと思います。

タイアップ作品の『虎に翼』という作品は、日本初の女性弁護士の道を歩む主人公を描く作品なわけですが、そのタイトル「虎に翼」は元からある故事成語だったりします。
その意味としては「ただでさえ威力の備わっているものがさらに威力を加えること。」という意味で、鬼に金棒に近い言葉なのですが、その出典を辿ると、少し違った視点が見えてきます。

もともと、「虎に翼」という言葉が出てくるのは韓非子の「難勢」というお話です。
(韓非子は「矛盾」の故事成語が載っているものと思っていただけたらと)
「難勢」では3人の人物が持論を戦わせます。
ひとり目の主張は「時の人の成功はその時流の勢いのおかげである」というもの。本人の才覚というよりは運、もっと言えば時代の流れにこそ価値を置くような言い分です。

一方、次に出てくる人は先の主張を否定します。いわく「どんなに時流がきていても才能がなくてはうまくいかない」と。
「虎に翼」はちょうどここに出てくるお話しです。
「獰猛な虎に翼を与えれば、たちまちにそこの人々を食い尽くすだろう」というお話で出てきます。
この文脈で言えば何だかいい意味で受け止められない「虎に翼」という言葉。
しかし、その後のまとめの部分を見ると、この解釈が一変します。

3人目に出てくる人物(おそらく韓非子が自分を投影したもの?)は、その両極端な意見の両方の問題点を指摘します。
つまり、時流のおかげだけで成功したわけではないけれど、才能だけでのし上がったわけではないというのです。
そして、その先に伝えるのはずば抜けた才能だけの人間も、時流をつかめた人間も再現性がないから、折衷案のところで人材を抜擢すべきというもの。
僕は個人的に『虎に翼』はこのプロットを踏襲しようとしているんじゃないかなと思って見ています。

寅子にいわゆる「常識」を押し付ける母や周囲の人たちは前者ですが、一方で自分の主張を通したい寅子も後者ということになります。
後者の寅子が自分の能力で上手くいって、それゆえに能力を過信して、そこでそれ以外の視点を得るみたいなことをやりたいのかなと思ったりします。
両極端な意見のどちらにもそれとなく釘を刺して、可能性を信じることと己の力を過信しすぎない大切さを知るみたいな。

そんな物語の展開を考えつつ、あとは歌詞考察に入りたいと思います。

山頭火の引用の意図と歌詞全体に通底する思い

この曲を聞いた時に僕が一番興味を持ったのは2番にある「しぐるるやしぐるる町へ歩み入る」という部分でした。
これは自由律俳句で有名な種田山頭火の「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」のオマージュだと思うのですが、米津さんがわざわざそれを引用した理由を考えると面白いなあと。

時雨とは一般に秋から冬に降る雨のこと。
そのざざ降りの雨の中でも進むしか無いと読んだ山頭火の俳句には、自身の境遇が重なっていると言われています。
幼少期に実母を自殺で亡くし、家業も失敗して借金を返すあてもなく酒に溺れて修行僧になった山頭火。
「しぐるるや」の歌にはそんな山頭火の自分の人生への思い、そして辛くてもその先にある「春」を信じて歩もうとする強い信念のようなものが感じられます。

「春と修羅」を思わせる2番の引用

種田山頭火は明確な引用ですが、それとは別に、この曲全体のモチーフになっているのでは?と個人的に思うのが宮沢賢治さんの『春と修羅』でした。
米津さん自身が『春と修羅』が好きと公言しているのもありますが、僕はこの曲の「口の中はたと血が滲んで空に唾を吐く」というフレーズを見た時に、『春と修羅』の「いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする」が頭に浮かびました。
また「人が宣う地獄の先にこそわたしは春を見る」はそのまま同作品を彷彿とさせます。
うまくいかずに悔しさで歯軋りする姿、そしてその怒りに天に唾を吐いてもしかたがない。
そんなもどかしさもやがてくる「春」に向かってもがく過程である。
種田山頭火の引用もあわせて、ここのフレーズにはこうした思いが含まれているように感じました。

「当たり前」を享受する現代の人間とそれを作るために戦った人との接触

僕はこの曲のテーマは、今となっては当たり前になったこと(今回で言えば女性の社会進出)に、あらためて思いを馳せるというような視点であるように感じました。
〈どこから春が巡り来るのか 知らず知らず大人になった〉という1番のAメロは米津玄師さん自身の思いであり、僕たちの視点。
今となっては当たり前のことも、それが当たり前になるまでには数々の歴史があることをうかがわせます。
〈気のない顔〉で〈見上げた先には燕が飛んでいた〉のは、今となっては当たり前になってしまった希望の象徴と考えるとしっくりきます。
そんな平和な現代を思わせるで出しを引き受けて続くのが2回目のAメロです。

〈もしもわたしに翼があれば 願う度に悲しみに暮れた〉
ここは打って変わって『虎に翼』の時代の話となっています。
(当時の人たちの頑張りのおかげで)今となっては当たり前になっていることも、その時の人たちにとっては数々の理不尽との戦いだったはず。
そうした理不尽と戦った姿が描かれるのがここのフレーズです。
そしてそんな人たちに今はその願いが叶ったから〈100年後には心配しないで〉と語りかける。
結末を知らない作中世界の人たちにそう語りかける米津玄師さんの歌詞からは徹頭徹尾当時の世代を生きた人へのリスペクトを感じます。
〈土砂降りでも構わず飛んでいくその力が欲しかった〉というのも寅子を含めた当時の時代を生きる人たちの内面と考えて良いでしょう。
そしてサビに入ります。

サビの前半は当時の時代を生きる人たちの視点から始まります。
〈誰かと恋に落ちて また砕けてやがて離れ離れ口の中はたと血が滲んで空に唾を吐く〉
どうにもならない運命に時には悔しさを抱いて苦虫を噛み潰すこともある。
そうした思いに耐えながらも未来を信じて戦った主人公。
そんな寅子に投影されるこれからの社会の発展に思いを馳せた人たちがこれからの世代を生きる人たちへ伝えたい気持ちが〈瞬け羽を広げ 気儘に飛べどこまでもゆけ〉なのかなあと思います。
ただしそれは押し付けがましいものではなく、「それが当たり前になっていたらいいな」というもの。
だからこそ〈100年先も憶えてるかな 知らねえけれどさよーならまたいつか!〉というカラッとした言い回しであるように感じます。
自分たちの頑張りが将来の人たちのためになると信じている。
一方でそれを恩着せがましく言うのではなく、できるならそんな争いがあったことも知らないくらいにそれが浸透していてほしい。
〈しらねーけれどさよーなら〉にはそんなニュアンスが含まれているように感じます。

女性の社会進出が当たり前になりつつある現代を歌うサビとは一転して、そうした「春」を求めて戦った人たちの姿が歌われます。
種田山頭火のオマージュや宮沢賢治の『春と修羅』を彷彿とさせる言葉選びは、そうした「春」が訪れるまでの苦悩をキチンと描きたかったからなのかなというのが僕の感想です。
著作権の都合で引用は避けますが、2番は全体を通し、まだ見ぬ春を信じて突き進む姿が描かれます。
その象徴が〈人が宣う地獄の先にこそわたしは春を見る〉というところではないでしょうか。
「人が宣う地獄の先」とは、周囲の人たちが口にする「やめとけ」という声のこと。
新たな挑戦や大きな夢を持つと、周囲からは何かと「そんなことやめておけ」と言われがちです。
しかしそうした野望を持ち、信じて突き進む。
諦めずに挑戦し続けることで初めてその先にある「春」をつかみ取れるというのがここのニュアンスでしょう。

そして2番のサビへ。
2番のサビでは〈蓋し虎へ どこまでもゆけ〉と、寅子を思わせるフレーズと共に、その生き方を応援するような歌詞が並びます。
〈100年先のあなたに会いたい〉というのは作者の側から作品世界の登場人物たちに向けた「あなたたちが思った世界が実現した現代を見てほしい」というメッセージのようなものでしょう。
2番のサビのこのフレーズからは、今の「当たり前」を作るために頑張った当時の人たちへの深いリスペクトが滲みます。

時代をこえた往復書簡のような形で展開する歌詞の世界

米津玄師さんはこのタイアップの依頼が来た際に、女性の社会進出をテーマにした曲をわざわざ男の自分に依頼する理由を尋ねたのだそう。
そしてその依頼を引き受けた米津さんの出したアンサーがこの歌詞で描かれたやり取りということでしょう。
現代の視点から当時の人を男性側の視点から描けば、どうやってもある種の「上から目線」に受け止められかねません。
だからこそその時を生きた人たちの視点から「知らねーけど」「さよーならまたいつか!」と言わせ、「僕たちはしっかり受け止めています」と100年越しのアンサーという形で歌詞を成立させた米津玄師さんの切り口は見事だなあと感じました。

「忘れてもいいからね!」「しっかり受け止めました」と、時代を越えてやり取りをするような歌詞構成。
ちょうどそれは、僕たちが『虎に翼』がエンディングを迎えた時に感じる気持ちにも重なるような気がします。
それを主題歌に落とし込んだ米津玄師さんはやっぱりすごいなと、新曲が出るたびに好きになっていく感じがしました(笑)
みなさんはこの曲についてどのように感じたでしょうか?

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