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風吹ジュンさんに喜んでもらいたい

西日本で豪雨による災害が出て、大変そうである。この手の災害が起こると、SNS 上で「折り鶴を送ることの是非」のやり取りが目につく。

送られる側としては、もらったほうは折り鶴を災害からの復旧に直接使えないし、捨てにくいしで、困る。送った側は、即物的な効用よりも、その気持が大事なのだから受け取るべき、と憤る。

誕生日だとかのプレゼントとかでも思うだけど、送る側の傲慢さに、私は驚く。

仮に私が風吹ジュン(仮名)に誕生日プレゼントをするという場合を考える。私の中での贈り物のメンタルモデルは、こうだ。

「風吹ジュンさんに喜んでもらいたい・ 幸せな気分になってもらいたい・なんなら私に惚れて欲しい。そのためには、中国茶を淹れるための急須なんかいいんじゃないか。そうだ、そうしよう。」

と急須をプレゼントにする。「風吹ジュンさんが喜ぶ(その結果、私に惚れる)」ことが目的である。

このとき、風吹ジュンさんが急須を気に入るかどうかは、彼女次第だ。すでに持ってるのかも知れないし、急須なんて要らないかも知れないし、センスが壊滅的に違うのかも知れない。私はこの状況で、風吹ジュンさんが「嬉しくない」と感じる可能性があること認識しているし、その責任は私にあると考えている。彼女は(あるいは事務所は)儀礼的に私に礼を言うかも知れないが、それは彼らが優しいからから、イメージを大事にしているからだ。

しつこいけど、一番最初に私が自分自身で「風吹ジュンさんが喜ぶ(その結果、私に惚れる)」というゴール設定をしたのだ。別に風吹ジュンさんに頼まれたわけじゃない。

なのにである。「一生懸命選んだんだから」とか「あなたを思って」とかいう、目標設定側のコストを、受け取り側に押し付けてくる人たちがいるのだ。

いや、何かくれと頼んだんなら別である。その結果、欲しいものが得られないなら、それは依頼内容が悪いのだ。

そうじゃなくて、サプライズのクリスマスプレゼントや、折り鶴のように、送る側が勝手にやってることにおいて、受け取る側に対応を要求するというのは責任転嫁であると感じる。私は。

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