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日記 自分の文章が嫌いだ

・自分の文章が嫌いだ 2024/1/9


 というより、自分の過去の産物が嫌いなのである。例えば、音声、写真、動画は見ると体に寒気がして拒否反応を起こす。自分が思っていたのと違うと感じてしまいこのギャップに嫌になってしまう。自分の母親も、苦手だと言っていた。家族のビデオを見たときに自分の若い頃がすごく嫌に感じるらしい。けど、だんだん見ていくうちに慣れてしまい何も感じなくなったと言っていた。
 よく教授とかがちゃんと文章を見返して誤字脱字をなくしなさいと言う。心の中で「それができねぇから困っているんだろ!!!」と叫んでいる。今書いている文章も推敲しなければならない。あぁ、嫌だな。けど、こんなnoteを書こうとしてるんだからきっとその先に何かもとめいるのかもしれない。時々書いていくと、どんどん自分が気づかなったことがどんどん溢れ出てくる。「こんな気持ちを持っていたのか!!」と毎回衝撃を受ける。自分の文章は嫌いだが、こういう好きな部分がある。だから、のんびりと書いていこうと思う。

・人を誘うのがめんどくさい!! 2024/1/12


 2024年を迎えて、ようやく大学生活に慣れはじめた。そんなわけで今年から色々なことを始めてみようと思う。自分の生活に慣れ始めたら、新しい要素を入れた方がいいと思う。同じような生活続けてると、どうしても形式化してしまいどんどん思い出にならない。それでいいと思うならいいが、その生活に納得できない人もいるだろう。なので最近カメラに興味を持ち始めたから、おじいちゃんに教えてもらうことにした。自分で始めることもできるが、新たなことを始める時は人を巻き込んだ方がいい。
 しかし、今まで人に頼みごとや誘うことは非常に億劫で避けてきた。自分が小さい頃に遊ぶために友達の家に行ったとき断られたのが、すごく傷ついたのだ。その時の自分は世界は綺麗でなんでも思い通りになると思っていたから、裏切られた気持ちになったかもしれない。それから、人を誘おうとするたび無意識に避けるようになった。誘って断られるくらいなら、やりたくないと思った。けど最近、思い切って人を誘うことで楽しかった思い出が増えてきた。だから、誘うことは大事だということを改めて実感した。今回も、おじいちゃんにカメラを教えてくれと頼んだが喜んで教えてくれた。おじいちゃんが「とーはるくんがカメラに興味を持って嬉しい」としみじみ呟いたことが自分の中で人にお願いして良かったなと心の底から感じて、ちょっぴり泣きそうになった。やっぱり人を巻き込んで新しいことを始めると、新しい思い出が増えていいなと思った。


・やりたいことを見つけるには? 2024/1/18


 この前、やりたいことを見つけるには?」という問いを大学のサークルの先輩たちに投げかけてみた。そうしたら、みんな一緒に考えてくれてすごく楽しかった。そこに明確な答えは出なかったが、考える楽しさが芽生えた。というわけで、この対話を通して自分の考えを書いてみる。これを読んで自分がどんなふうに感じたかをぜひ深ぼってほしい。
 まず、「やりたいこと」とはなんだろうか。曖昧だから、もう少し具体化してみよう。例えば大谷翔平は野球に出会い、人生を捧げてきてあそこまでの結果を得たのだ。そんな人生を、人は羨ましいと思う。何か時間を忘れること、熱中したいことを見つけたいと人々は憧れを抱く。
 さて、そんな「やりたいこと」を見つけることはできるのだろうか。大半の人はそんな「出会い」を見つけられないと思う。そんなのは運でしかない。大谷翔平は野球に出会えたのも環境によるものだから、運でしかないということだ。ほとんどの人はそんな「やりたいこと」を明確に持っていない。じゃあ、やりたいことを見つけようとすることは無駄なのだろうか。
 ここで、もう一つ例に出したいのが夏目漱石である。彼は文豪として日本中が誰もが知っているが、最初は夏目漱石もかなり苦労して小説家という道に辿りついたのだ。彼は東京帝国大学英文科に進学し、そこで高い評価を受けて卒業後は英文科の研究者として日々を送っていた。そんなときに、イギリスに留学できる機会を与えられました。そこで、英文学とは一体何かを研究したい想いを持ってイギリスへと旅立った。しかし、そこで英文学を学べば学ぶほど英文学がわからなくなってしまい、心を病んでしまった。イギリスから帰国した後、教師になったがそこに熱中するわけでもなくただ空虚な毎日を過ごした。しかし、夏目漱石はそんな中で文学は自分で作るしかないと悟り小説家の道を歩んだのだ。学習院大学の講演会の書き起こしである『私の個人主義』では、こんなことを言った。

他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう

『私の個人主義』p. 19

何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった!  ようやく掘り当てた!  こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

私の個人主義』p. 20

 私たちはやりたいことを求めているが、ただ悶々として心の奥底にあるだけでそれを掘り下げたりすることはしない。けど夏目漱石が言ったように、自分の欲望に気づきそれを探し続けなければならない。探し続けるとということは、行動に移すことだ。その行動で、私たちは「やりたいこと」に出会える確率は上がる。何もしない人と新しいことをする人では、明らかに新しいことをしている人が「やりたいこと」に出会える。だから、今後も色々な挑戦をしてみたい。もしかしたら、何年何十年とかかるかもしれない。けど、私は探し続ける。見つけたときこう言うのだ。




「ああ、ここにおれの進むべき道があった!  ようやく掘り当てた! 」


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