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ITと企業戦略の関係を考える 第1回  「ニコラス・カーは “IT Doesn't Matter” で何を伝えたかったのか」 ソフトバンク ビジネス+IT (2006年2月)

ITにお金を使うのは無駄?

 もう3年ほど前になるが、ハーバード・ビジネス・レビュー(HBR)の2003年5月号に ”IT Doesn’t Matter” という論文が掲載された。著者はニコラス・G・カー(Nicholas G. Carr)、ビジネス戦略と情報技術に関して数多くの記事や論文を書いている著述家で、現在はコンサルタントと紹介されることもある。

 “IT Doesn’t Matter” のITとは情報技術(Information Technology)のことで、この論文のタイトルは “It doesn't matter(たいしたことじゃないよ)”の洒落になっている。直訳すれば「ITは重要ではない」とか「ITなんかどうでもいい」になるのだろう。ちなみに、カーのいう「IT」とは、デジタル化された情報を処理、蓄積、伝達するための技術とその製品であり、情報処理に用いられるハードウェア、ソフトウェアなどのすべてを包含している。
このセンセーショナルなタイトルもさることながら、その内容もまた、ネットバブル崩壊の傷が癒えつつあった当時のIT業界やその関係者からみれば衝撃的なものだった。

 たとえば、「ITは戦略上あえて注意を払うべきものではなく、その重要性は失われつつある」とか「ITとその活用法は実質的に誰にでも入手できるものになり、差別化には役に立たなくなっている」、「過剰な機能や能力を持ったパソコンを2、3年毎に更新するのは無駄遣いである」「注目すべきなのはITのもたらす価値ではなく、そのリスクである」というような主張をカーは繰り広げている。

 この論文がHBRに掲載されると、米国の主なITベンダーの経営者、ITコンサルタント、関連分野の研究者などが、さまざまな反論やコメントを発表し、マスコミもこれを取り上げて論争が巻き起こった。
 たとえば、ニューヨーク・タイムズ紙は5月中に2回、6月に1回この論文あるいはこの論文に関する論争を取り上げている。コンピュータワールド誌やインフォメーション・ウィーク誌などの業界誌はもちろん、ワシントン・ポスト紙やUSAトゥデイ紙などの新聞やフォーチュン誌などの雑誌もカーの論文を取り上げた。インテルのCEOであるクレイグ・バレットやマイクロソフトのビル・ゲイツなどのIT企業の経営者、ジョン・シーリー・ブラウンやジョン・ヘーゲル3世、ハル・バリアンのような研究者もカーの論文に対する反論やコメントを発表している。

 日本でもカーの論文は多少話題になったものの、それほど大きな騒ぎにはならなかったのだが、カーが書き下ろした書籍 “Does IT Matter?” の日本語訳が昨年出版されたこともあって、いくつかのブログで取り上げられている。そのタイトルが「ITにお金を使うのは、もうおやめなさい」なのだが、どうも原著のタイトルに比べるともう一つインパクトがない。おまけに、カーは「IT投資をするな」とは言っていない。

 ともあれ、この短期連載では、このカーの論文とその後の論争、カーの著作”Does IT Matter?”を取り上げ、その議論の内容を再考してみたい。
 

ITは重要ではないのか

 まず、最初に指摘しておくべきことがある。それは、カーの論文のタイトル(”IT Doesn’t Matter”)と著書のタイトル(”Does IT Matter ?”)は、その内容を正確に表現したものではないということである。
 この論文や著作の内容を紹介せずにタイトルだけを引用すれば、おそらく多くの人は「ITは重要ではない」というように誤解するだろう。実際、カーの論文に対する反論の中には、カーの実際の主張をよく理解せずに「ITは生産性の向上をもたらすものだから企業にとって重要である」、「ITはまだまだ進歩し、企業にイノベーションをもたらす重要な要素である」といった的はずれな反論が数多くみられる。しかし、カーは論文でも著書でも「ITは重要でない」とは一言も言っていない。

 カーの論文と著書の最も重要な部分を大胆に要約すれば、その主張は「ITは、電話や電力、鉄道などの基盤的技術と同じように技術的な成熟にあわせてコモディティ(日用品のように誰でも容易に入手できるもの)になりつつあり、もはや企業にとって持続的な競争優位の源泉ではなくなっている」というものである。
 つまり、情報技術は(電話や電力と同じように)ビジネスには不可欠であるが、企業戦略や事業戦略から見れば重要ではなくなっていると主張しているのである。HBRの論文を掲載したダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビューは、タイトルを「もはやITに戦略的価値はない」と意訳している。この方が内容を適切に表現していると言えるだろう。

 このカーの主張は、この業界でかつてもてはやされた「戦略情報システム(SIS)」を否定するものである。
 SISは1980年代に流行したバズワード(専門的な響きをもつ流行語)ではあるが、実態のない流行語ではない。実際に、最先端の情報技術を使って他社との差別化を図り競争優位を勝ち取った企業の事例もいくつもあった。たとえばアメリカン航空が構築したオンライン座席予約システムのSabre(セーバー)やアメリカン・ホスピタル・サプライ(AHS)によるオンライン受発注システムのASAPなどである。

 カーはこうした事実を認めつつも、最新の情報技術を用いて競争優位を勝ち取っても、それを維持できる時間はどんどん短くなっており、その情報投資に見合うものではなくなっていると主張している。つまり、他社より先に新しいシステムを構築したり、新技術を取り入れて他社との差別化を図っても、それに見合うだけの効果は得られなくなっていると言うのである。
その背景には、技術のコピーサイクルが短くなっており、ITがもはやコモディティ化(日用品化)しているからだというのである。

 ITのコモディティ化とは何を意味するのだろうか。また、本当にITはコモディティ化しているのだろうか。次回はITのコモディティ化について考えてみよう。


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