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真実を写すと書いて写真

真実を写すと書いて写真と読みます。
写真に真実って写るんでしょうか?

写真という言葉自体が翻訳ミスで
photo=光、graph=画
つまり、光画である。という意見もチラホラ見聞きしますが、写真になっちゃったモンはしょうがない、写真という言葉にズルズルと引きずられる感覚が無きにしもあらず、という気がします。

写真は目の前にある光景を写し撮るため真実しか写らないと言うのは単純です。
大事なのは誰にとっての真実かという事です。

例えば、Aという国とBという国が戦争をしたとします。あなたはA国の支援を受け、A国の軍事活動に従軍する写真家として戦場に行きます。あなたが撮る写真はA国から見た戦場という事になります。もし、A国が占領したB国の国民に対して人権を無視するような扱いをしていたとして、それを写す事をするでしょうか?最終的に写真に写っている事柄は真実でしょうか?

これは大きすぎる例えでしょうか?
もう一つ

あなたは綺麗なお花畑があるという情報を聞いて写真を撮るために実際に行ってみたところ、花は殆ど枯れており、綺麗に咲いているのは数本だけでした。あなたはその綺麗な花だけを撮るために、明るい単焦点レンズを使い、背景をボカす事で他の花が枯れてるとわからないような写真を撮りました。

あなたは綺麗な部分だけを写し撮りました。
あなたはあなたの見てほしい所だけを選択します。
そうして撮られた写真は真実でしょうか?

あなたはあなたの主観により全ての写真を撮影しているはずです。
たとえ間違えてシャッターを押してしまった写真だとしてもそれをセレクトして他人に見せるのはあなた自身が選択する事です。
自分の主観から逃れる事は出来ないはずです。
写真という行為の何処かに必ずあなたの主観が混じります。

主観が混じると純粋な真実ではなく、あなたが見て欲しい真実になってしまいます。

というのを中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」という本に詳しく書いてあるので興味があったらどうぞ。

ここからは完全に個人的な意見ですが
自分の主観が必ず混じるので有れば写真における真実など求めず、自分の主観ありありの理想を求める表現の方が写真には向いているのかもしれないと思うわけです。

意思を持ってシャッターを切った自分が、どんな理想を描いていたのかを確認する作業がセレクトであり、理想に近づくように編集し見る人達に伝える行為の全てが写真なのかなと思うわけです。

真実を写すと書いて写真ですが、理想を写したっていいじゃないかと思うわけです。

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