Toru Sano

雑文書き、編集業。著書=『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)/編書=『90年代アメ…

Toru Sano

雑文書き、編集業。著書=『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)/編書=『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)、『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)、『映画は千の目をもつ 私の幻想シネマ館』(海野弘著、七つ森書館)等。

最近の記事

李誠七の足あと――朝鮮人虐殺の犠牲者を弔う

負の歴史をみつめる  昨年上梓した『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)は、約4年がかりで横浜の各所をあるきまわり、同時に多数の文献資料などにあたって書き上げた「まちある記」本だ。  当初から考えていたのは、「おしゃれな港町・横浜」をただやみくもに礼賛するような本にはしたくない、ということだった。どんな場所にも、輝かしい歴史もあれば、負の歴史もある。指針としたのは、今年4月に亡くなった海野弘さんの「一つの場所は一つの顔を持っているわけではない。そこには歴史の時間が何層に

    • 「誇り」と「美意識」に殺されないために

      「悪辣」であるかないかを区分するまえに  過日、CSで瀬々敬久監督の『護られなかった者たちへ』(2021年)を観直す機会があった。  中山七里のミステリ小説を原作とするこの映画は、ある連続殺人事件の真相をめぐる物語に、東日本大震災がもたらした惨禍や生活保護制度など現実の社会状況を巧みに織り込んだ作品で、僕は2021年度キネマ旬報ベスト・テンの第6位に選出し、「週刊文春シネマ」2021秋号では瀬々監督にインタビュー取材もおこなっている。  そうして近年の力作であることを認

      • 坂本龍一の「ダウンタウン理論」は正しかったのか

         坂本龍一の訃報を伝える記事が各紙誌に掲載されるなか、インターネット上で目にしたいくつかの記事が、坂本氏とダウンタウンとの関わりについて書いていた。  かつてのフジテレビの人気番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」における「アホアホマン」や「野生の王国」といったコントでの共演、ラップユニット〈GEISHA GIRLS〉のプロデュースなどである。  それらの記事を読んで、筆者は、坂本氏が小説家の天童荒太との対談集『少年とアフリカ』(文藝春秋、2001年)で語っていたことを思い起こ

        • 『ディープヨコハマをあるく』をあるく

           拙著『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)が刊行されてから約5ヵ月が経過した。  このかん、各紙誌やツイッター等のSNSでは多くのレビュー・感想をいただき、著者として感謝の念に堪えない。  この場での紹介をもってお礼に代えさせていただこうと思う。  週刊誌でいち早くとりあげてくれたのは「週刊新潮」だった。評者は篠原知存氏。ナポレオン党にはじまり、松弥フルーツでおわる、「ごった煮の街」としての横浜に着目したレビューだ。  「週刊エコノミスト」では、北條一浩氏が「街歩きガ

        李誠七の足あと――朝鮮人虐殺の犠牲者を弔う

          こたえることのない相手に呼びかける――『監督失格』

           『さよならもいわずに』(エンターブレイン)というマンガがある。ギャグマンガ家として知られる上野顕太郎が、うつ病と喘息をわずらい、ある日突然この世を去った前妻のキホさんとの日々、そして長い長いその後をつづったエッセイマンガだ。  キホさんを失ったそのときから、上野は終わりのみえない自己言及の淵に落ち込んでゆく。妻はしあわせだったのか、頭のなかでいくら反芻しても答えは出ない。「ただいま」「おかえり」――生前交わしていた夫婦のなにげないやりとりが、彼の脳裏でえんえんと繰りかえされ

          こたえることのない相手に呼びかける――『監督失格』

          みえないもの、不確かなものに目をこらし、耳をすませること――『(ハル)』

           読ませる映画である。  といっても、複雑なストーリー展開を読ませる、とか、隠されたテーマを深読みさせる、とかいった意味ではなく、物理的に文字を「読ませる」映画なのだ。  時代は、インターネットが徐々に家庭に浸透しはじめた一九九〇年代半ば。美津江(深津絵里)は(ほし)というハンドルネームをつかい、パソコン通信の映画フォーラムにアクセスしていた。そこへある日、(ハル)というハンドルネームをもつ昇(内野聖陽)が現れる。メールでのやりとりをつうじて相手に対する興味を深めてゆく二人。

          みえないもの、不確かなものに目をこらし、耳をすませること――『(ハル)』

          物理的な死をこえて生きつづける魂――『天国から来たチャンピオン』

          「コーヒー、いただくわ」  ジュリー・クリスティ演じるヒロインは、ウォーレン・ベイティ演じる「主人公」の目をみつめ、そうささやく。  『天国から来たチャンピオン』のこのラストシーンは、相手の目をみつめることで起こりうる奇跡を描いた、映画史上最も美しいシーンのひとつではないかと思う。  アメリカン・フットボールの選手ジョー・ペンドルトン(ウォーレン・ベイティ)は、ある日、交通事故に遭って死んでしまう。ジョーは案内人の天使(バック・ヘンリー)に付き添われて天国行き飛行機の搭乗口へ

          物理的な死をこえて生きつづける魂――『天国から来たチャンピオン』

          【追悼・大林宣彦】『花筐』は“大林映画”の到達点にあらず、ただただ“映画”をつくりつづける大林宣彦の現在にほかならない

           大林宣彦は、誤解されつづけてきた映画作家である。その作品に批判的な方面からだけでなく、いわゆる熱心な大林フリークからも少なからず誤解されてきた。それはごく一般的なレベルでは無理からぬことでもある。大林作品は、一見して受ける印象と、その深層にあるものの大衆的浸透にひらきがあり、前者の要素、すなわち情動に訴えかけてくる面だけでも存分に映画的快楽を享受したというカタルシスがあるからだ。そして実際、大林フリークの多数派はその圧倒的な情動にこそ共鳴する。一方、批判的な者は、同じくその

          【追悼・大林宣彦】『花筐』は“大林映画”の到達点にあらず、ただただ“映画”をつくりつづける大林宣彦の現在にほかならない

          『Fukushima 50』における「表現の主体」について

           以下は、産経ニュースの記事〈「Fukushima50(フクシマフィフティ)」観客絶賛、評論家酷評…原発が背負った「宿命」表出〉(https://special.sankei.com/a/entertainment/article/20200312/0001.html)に関連する取材を受けた際に、担当記者氏に送ったメールの内容である。  「キネマ旬報」の星取レビュー欄に寄稿した『Fukushima 50』評を補うものとして、ここに掲載する。  尚、私信にあたる前後の挨拶文を削

          『Fukushima 50』における「表現の主体」について

          過去のない現在、あるいは「老害」について

           さいきん、ネットニュースで「●●さんの若い頃の写真に反響。××さんにそっくり!」などという記事をよくみかける。実に他愛のない、いわゆる「ネタ記事」なのだが、僕はそれをみるたびに、どこか居心地のわるいような、妙な違和感をおぼえる。  そして、ふと、あるTVドラマのことを思い出して、僕はその違和感の正体を理解したような気がした。  と当時に、これもやはりネットで頻繁に目にする「老害」ということばが、頭にうかんだ。  そのTVドラマとは、山田太一脚本によるNHKの連続ドラマ「男た

          過去のない現在、あるいは「老害」について

          寅さんをめぐるイントレランス

           YouTubeにアップされていた伊集院光のラジオ番組のなかに、『男はつらいよ』の一篇についてしゃべっているものがあった。  伊集院氏は、シリーズの後期において、あたかも「日本人のこころの代弁者」のようになってしまった車寅次郎に違和感をおぼえつつ、あらためてシリーズ初期の作品を観直し、「寅さんは基本的にはいやなやつなんじゃないか」と感じたという。  無知でがさつなやくざもので、身内や周囲のひとびとに迷惑をかけまくる寅次郎は、なるほど身近に実在したら、ほとほとうんざりするような

          寅さんをめぐるイントレランス

          わが窮状

           物心ついてから、どこよりも安息の場所だったはずの映画館に、もう半年以上、足を運んでいない。  時折、部屋でDVDやブルーレイディスクを観ることもあるが、集中力がつづかず、あまり頭に入ってこない。  それでも、無音の部屋にいつづけるのはつらいので、iTunesで常時音楽を流し(所有していた3000枚強のCDは、金策のためにすべて売り払った)、それに飽きるとラジオやポッドキャストに切り換える(ライムスター宇多丸さんや伊集院光さんなど、もっぱらTBSラジオにお世話になっている)。

          わが窮状

          失った「匂い」、溜め込んだ「心の垢」――『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』

           先日、インターネットのツイッターを覗いていたら、岩井俊二監督がアニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(原恵一監督)について言及していた。岩井監督は今回初めてこの映画を観たらしく、「2001年の作品だが、二十一世紀はこんなはずじゃなかった、というテーマはむしろ今のほうがより深く響く」と書いている。  僕はこの映画を公開当時に映画館で観ており、のちにTV放映やソフトで何度か観直しているが、そのたびに深い感動をおぼえる。実は、岩井監督のツイートを読む

          失った「匂い」、溜め込んだ「心の垢」――『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』

          【書評】加藤泰著、鈴村たけし編『加藤泰映画華 抒情と情動』――単なる文庫化ではない労作

           昨年四月に創刊された〈ワイズ出版映画文庫〉のラインナップを最初に目にしたときには、正直、映画好きならこのあたりの本は原書で持っているだろうし、わざわざハードカバー並みの価格設定がされた文庫本を買う人がいるだろうか、と思っていた。しかし、いまのところ、その先入観はよい方向に裏切られている。  本書を一読すれば、その理由は明らかだ。書名だけ見ると一九九五年に刊行された同名の本の文庫化のようだが、実際にはまったく新しい作家研究書と呼んで差し支えない一冊になっている。  加藤泰自身

          【書評】加藤泰著、鈴村たけし編『加藤泰映画華 抒情と情動』――単なる文庫化ではない労作

          【書評】長谷川町蔵『21世紀アメリカの喜劇人』――コメディの「いま」を知る

           二〇〇七年に故・みのわあつおが上梓した『サタデー・ナイト・ライブとアメリカン・コメディ』(フィルムアート社)は、アメリカのコメディの基礎を知るのにうってつけの入門書である。だが、笑いの進化は早い。そろそろ新しいガイドブックがほしいな、と思っていたところに本書が刊行された。しかも本書はただの入門書ではなく、みのわ氏らが押し広めたアメリカン・コメディ観を刷新するほどの批評性を含んでいる。  たとえば、七〇年代末に『アニー・ホール』その他の作品で“新しさを超えた新しい映画”の作り

          【書評】長谷川町蔵『21世紀アメリカの喜劇人』――コメディの「いま」を知る

          【書評】十河進『映画がなければ生きていけない 2010-2012』――飾り気のない文章の旨み

           書店や図書館の映画本コーナーを回遊していて、それまで聞いたことのない著者の面白い文章に出くわすと、なんだか得をした気分になる。  十河進の文章を目にしたのもまったくの偶然だった。もっとも場所は書店や図書館ではなくインターネットのメールマガジンである。  「日刊デジタルクリエイターズ」というメルマガに連載されているそのエッセイ「映画と夜と音楽と…」は、タイトルに「…」と付くように、映画や音楽だけにとどまらず、十河氏が自身の生活動線のなかで見たり聞いたりした事柄が一読する限りで

          【書評】十河進『映画がなければ生きていけない 2010-2012』――飾り気のない文章の旨み