寅さんをめぐるイントレランス

 YouTubeにアップされていた伊集院光のラジオ番組のなかに、『男はつらいよ』の一篇についてしゃべっているものがあった。
 伊集院氏は、シリーズの後期において、あたかも「日本人のこころの代弁者」のようになってしまった車寅次郎に違和感をおぼえつつ、あらためてシリーズ初期の作品を観直し、「寅さんは基本的にはいやなやつなんじゃないか」と感じたという。
 無知でがさつなやくざもので、身内や周囲のひとびとに迷惑をかけまくる寅次郎は、なるほど身近に実在したら、ほとほとうんざりするような人物だろう。
 しかし、と伊集院氏は言う。
 この「基本的にはいやなやつ」が、時折見せる「単純なやさしさ」(純粋さと言い換えてもよいが)に、映画のなかのひとびとも、わたしたち観客も、ほだされてしまう瞬間があるのだ。根っこの部分では、決して悪人ではないのだということを(渥美清という役者の魅力も手伝って)本能的に感じとるからこそ、車寅次郎という人物は、また『男はつらいよ』という作品は、多くのひとの共感を呼ぶのだ、と。
 この伊集院氏の解釈は、山田洋次監督が企図した車寅次郎の人物造形をかなり正確に言い当てていると思う。
 山田洋次は、もし寅次郎が現代に生きていたら間違いなく「負け組」と呼ばれただろう、と語っている。そのことばは同時に、寅次郎が現代の日本では存在しつづけることじたい困難な人間であるという真実を暗に物語っている。
 寅次郎にかぎらず、山田洋次が好んで描いてきた主人公の多くは、こうした時代おくれのはぐれ者というべき人間たちである。
 『山田洋次の〈世界〉』(ちくま新書)を著した批評家の切通理作は、「彼ら」の特徴を以下のように記している。
<正直者で、喜怒哀楽を素直に出す。そして人間関係の縛りがないから自由に誰とでも付き合える。また勉強嫌いで字を書くのも苦手。体系的な教養がないために受け売りが多く、影響を受けるとすぐその考えを誰かに言いたくなる。その分素直でもある。当然労働も持続性がないから一つの職場が続かない。気に入らなかったらすぐ喧嘩してやめる。ゆえに世間では不良と呼ばれる存在>
 このような、いわば「馬鹿まるだし」な主人公が山田洋次作品には繰り返し登場するのだ。
 切通氏はつづけて、
<(彼らは)実際には知能指数が低いわけではなく頭も悪いわけではない。「無知」ではあるが「痴」ではない。ただそういう人間は要領がよくないし、打算的な生き方は出来ないから、競争社会の中では「馬鹿」と言われるのだ>
と書いているが、かつて正月の興行のたびに喜び勇んで町の映画館へ繰り出し、スクリーンにむかって「よっ、寅さん!」と声をかけた観客たちの多くは、まさにこうした「馬鹿」の姿に自身を投影したり、安堵をおぼえたりしたのではないだろうか。つまり、このとき、観客の側にも車寅次郎は「いた」のである。
 文筆家の草森紳一は、こう書いている。
<「もし、今の世の中に寅のような男がいたら」と渥美清は言うが、けっこうまだだれもの周辺にいたようにも思える。寅さん映画を見ながら、いつも私は三十代の半ばで夭折した中学時代の友だちを思い出していた>(「広告批評」1997年8月号)
 少なくともある時代まで、車寅次郎という男は、たしかに生身の、体重をもった人間として観客に意識されていたのだ。
 だが、時の流れは、徐々に寅次郎を(現代からみれば)リアリティの欠落した、「負け組」的な存在へと追いやっていった。
 切通氏の著書では、山田洋次の以下のようなことばが引用されている。
<『寅さん』を作っているうちに、気がつくと世の中のほうがすっかり変わってしまって、「いつまでも昔の日本をノスタルジックに描いて」みたいな悪口まで言われるようになった。ぼくのほうは別に意地になって古い世界を描いているわけじゃないんだけれども、変わり方のほうが激しすぎるというのか>(「現代」1997年6月号、『山田洋次の〈世界〉』より孫引き)
 こうした空気のなかで、寅次郎は、「本人」(この場合は劇中の寅次郎のみならず、山田洋次と渥美清のことも指す)が望むと望まざるとにかかわらず、一種の毒抜きされた「偶像」と化していったのではないか。
 伊集院光が違和感をおぼえたという「日本人のこころの代弁者」のような(正確に言えば、そのような受けとめられ方をした)寅次郎こそは、その結果にほかならない。
 じっさい、寅次郎を「いやなやつ」であると形容することを、「良心的」な観客は許そうとしないだろう。
 いっぽうで国民的なアイコンでありつつ、いっぽうでは時代にとりのこされてゆく存在。こうした無自覚なダブルスタンダードは、いかなる世のなかにおいても、不寛容(イントレランス)を特徴づける普遍の要素である。
 自分とまったく関係のない芸能人の不祥事などに易々と付和雷同してしまう「謝らせるのが大好き」な国のひとびとが、他の国から謝罪を求められると烈火のごとく反応する現状をみるにつけ、そう思わずにいられない。
 「いやなやつ」のなかに抗い難い魅力を見いだすこと、あるいは他者の犯したあやまちを自分も犯す可能性があるかもしれないと想像をめぐらすこと。映画や文学など、あらゆる表現はそのような「不完全の美徳」をみつめるところからはじまるはずだ。

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