【書評】山川方夫『目的をもたない意志』――「若書き」な文学者の言葉

 ある作家の死後にその「著書」を編集する場合、本の頭にどんな文章を持ってくるかによって出来不出来が決まると思う。
 本書の第一章の最初に収められた「灰皿になれないということ」を読みはじめたとたん、強く心を揺さぶられた。
<三年ほどまえ、私はさまざまな理由で絶望していた。(略)夢想は、すべて非現実、つまりすべての死のなかに収斂される気がして、私は死にたくなり、死ぬ決心をした>
 山川はやがて、自分の死をテーマに小説を書くことを思いつく。
<私はただ、それを書き上げることがすなわち私を死へと運ぶことになるのを希望していた。私は、私の生きたい意志、生きねばならぬ理由を、一つ一つひねりつぶしていってやるつもりでいた>
 そうして小説「日々の死」を書き上げたのが一九五七年、山川が二七歳のときである。「灰皿になれないということ」が書かれたのはそれからさらに二年後の一九五九年だが、その間に山川のなかで、なにかが変わった。その変化の過程をつづる言葉の一つひとつが読む者の心をとらえる。末尾の感動的な二行に行き当たったときには、だれもが深い感銘をおぼえるだろう。
 山川方夫の文章は、書評であれ人物評であれ映画評であれ、自分以外のなにかを語るなかで、結局は文学とともに生きようとする自己の問題に立ち返ってしまう。それは「若書き」な文章とも言えるが、けっしてナルシスティックな文章ではない。どうあがいても他人にはなれない、「灰皿になれない」自分という存在を問いつづけることこそが、すなわち文学者の生きかたであることに、山川方夫は先天的に気づいていたのではないか。
 最後に。この優れたエッセイ集を編集した高崎俊夫さんと、昨年末にあるイベントで顔をあわせたとき、デビューまもない頃の村上春樹が書いた映画や音楽にまつわる文章はとても面白かった、という話になった。ちょうど本書の編集作業の詰めに入られていた時期だったと思う。
 そのとき、高崎さんの頭にあった山川方夫と村上春樹が、本書のあとがきでしっかりと重ねあわされていることに、筆者は胸が熱くなった。
(「キネマ旬報」2011年5月上旬号)

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