【書評】『このショットを見よ 映画監督が語る名シーンの誕生』――カメラが映し出すものに心せよ

 ある映画のショットについて、微に入り細を穿った分析を試みた批評は、作家主義的立場に根差したものでも、テクスト論的立場から書かれたものでも、枚挙にいとまがない。その手の批評は、なかには優れたものもあるが、たいていは意味のない、死体解剖のようにグロテスクな表層主義批評(という自己満足)に終始している。
 その点、二九人の映画監督が自作のショットについて解説した本書はひと味違う。気になる監督のページを拾い読みしてゆくだけでも面白いが、全体を通して読むとさらに面白い。
 大林宣彦は、映画文法的に邪道とされている“目線ずらし”を意識的におこなうことで、映画という虚構ならではの「嘘から出た真」を描こうとする。いわばマジックリアリズムの追求だが、その言葉を実際に用いて、「裁くことなく、ただただ有り様を静観する視点」たる「神の視点」を採用したのは『おそいひと』の柴田剛だ。
 一方で、諏訪敦彦は、フレームの問題に言及する。映画は、あるカメラポジションとレンズを選択することでうまれる四角いフレームの、外側をけっして映し出すことはできない。しかし、諏訪はデビュー作『2/デュオ』において、俳優の即興演技を導入する。その予測不可能な動きをどのように撮影すべきか迷った諏訪に、撮影監督の田村正毅が言う。「フレーム内部にすべての出来事を収めようと思わなければ良い」と。
 これが、ドキュメンタリー映画作家の松江哲明になると、もはやフレームへの執着じたい希薄となる。「監督の仕事は画を確認することだけではないと思っている」と書く松江は、ついに「いっそのこと画面を見るのではなく、フレームの外に何があるかを探し、スタッフの仕事をより豊かにしたい」という考えに至る。そして、「映ってしまったもの、または意図を超えて撮れてしまったもの」をこそ待望するのだ。
 この松江の言葉に呼応しているのが、真に力を持ったショットとは、「意図や計略をもって「撮った」ショットではなく、「撮れてしまった」ショット」である」と書く高橋洋だろう。
 観る側ではなく撮る側から書かれた、これはすこぶる実践的な映画演出の手引書である。
(「キネマ旬報」2012年11月下旬号)

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