名優の強力な意志――『釣りバカ日誌ファイナル』

 『男はつらいよ』なきあと、松竹のプログラム・ピクチュアとして、22年間つづいてきた『釣りバカ日誌』シリーズに、とうとう終止符が打たれるときが来た。
 ひとくちに「釣りバカ」といっても、このシリーズ、栗山富夫が監督を手がけた1~10、本木克英監督による11~13、そして朝原雄三監督による14以降と3期に分かれ、それぞれに異なるカラーをもつ(さらに、このいずれにも当てはまらない怪作として、森崎東の『釣りバカ日誌スペシャル』がある)。
 栗山監督による初期のシリーズは、社長とヒラ社員がじつは懇意の師弟関係にある、という関係性の妙から生まれる笑い、秘密がバレるかバレないかというスリリングな展開に重きをおき、ペーソスあふれるサラリーマン喜劇として毎回、安定した水準を保っていた。
 これが本木克英監督になると、それまで社内のごく小さな範囲内で展開されていた正調サラリーマン喜劇を大きく逸脱し、無人島などより大掛かりな舞台で、ハマちゃんの暴走がダイナミックに描かれることとなった(一方で、スーさんの喜劇的役割が後退していく)。
 朝原雄三も基本的には本木のテイストを踏襲しているが、加えて日本の企業社会でじっさいに起こっている問題をリアルタイムで取り入れるようになり、いきおいハマちゃんやスーさんもシリアスな現実と向き合わざるをえなくなった。
 僕個人の好みをいえば、圧倒的に初期のペーソス喜劇に思い入れがある。
 なかでも、尾美としのり・佐野量子カップルの駆け落ちとハマちゃんの愛息・鯉太郎の誕生エピソードを描いた4、ハマちゃんとスーさんによる社長入れ替わり騒動を描いた6がベストの出来だと思う。いずれも西田敏行、三國連太郎のキャラクターを完璧につかんだ栗山富夫のテンポよい演出が冴え、アドリブを交えた2人のやりとりが最高におかしかった。
 また、ゲスト出演者も、後年になってからの単なる話題づくりとしか思えないような安易なキャスティングではなく、スーさんの不倫相手を艶かしく演じた原田美枝子(2)、ハマちゃん以上に豪放な母親を熱演した乙羽信子(5)、似た者同士の奇人カップルに扮した柄本明・室井滋(8)など、適材適所の配役が光った。
 ところが、本木克英が登板した11以降は、舞台立てのスケールアップに比して、こうしたキャラクターの関係性の面白さが後退してしまい、さらに朝原雄三に交代してからは、設定した現代的テーマを語り切ろうとするあまり、喜劇のテンポそのものが失速していくという本末転倒な様相を呈していた。
 本作『釣りバカ日誌ファイナル』も残念ながら、その点は同じである。ことに、松坂慶子と吹石一恵の母娘、および吹石の恋人である塚本高史のエピソードは著しく冗長でうんざりさせられる。やっていることは4の尾美・佐野カップルのエピソードとほぼ一緒なのだが、要は「喜劇の間」が悪すぎるのだ。
 ヒロインの撮り方も、2の原田美枝子、6の久野綾希子などと比較すれば一目瞭然、松坂慶子がまったく美しくとらえられていない(松坂自身の演技の問題もあると思うが)。
 しかし、それでも本作は、『釣りバカ日誌』シリーズを観つづけてきた者にとって、やはり相当感慨深い映画であることは間違いない。
 それは、終盤30分間の怒濤の展開によって保証される。
 思えば、近年のこのシリーズを「退屈だなあ」と感じつつも私たちが観つづけてきた最大の理由は、三國連太郎という俳優が醸し出す凄みにあったのではなかろうか。稀代の名優にとって、けっして魅力的な仕事ではなかったであろう『釣りバカ日誌』シリーズ(実際、初期作品に対しては、インタビューなどで大いに不満を表明していた)。しかし、それも本数を重ねるにつれ、文字通り、三國の(最後の)ライフワークともいうべき映画となっていった。そこには明らかに、みずからの肉体をもって鈴木一之助というキャラクターを生きさせようとする三國連太郎の強力な意志が垣間見えていたように思う。
 そんな三國の意志がなかば必然的に導き出したであろうクライマックスからラストにかけての展開に、僕は身震いをおぼえた。
(2009.12.30)

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