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「清和源氏の歴史」③

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」について、書いています。

①において、「清和源氏」の祖とされる源経基が938年、武蔵介として武蔵国に赴任して、平将門と一悶着を起こしたことを記した。平将門は「桓武平氏」であり、将門に殺された伯父の平国香の子孫その他は「坂東平氏」として、東国を勢力圏とした。

②で紹介した源頼光は、藤原道長に使え、京で活躍した。他方、頼光の弟、源頼信は兄とは異なる道を歩み、東国武門の棟梁を目指そうとする。1028年、平忠常の乱において、追討を命ぜられた平直方(平国香の玄孫)は苦戦し、罷免される。代わり追悼使となった源頼信は、見事に乱を鎮めて、武名を挙げた。

面目を失った平直方は、娘を源頼信の嫡男頼義に嫁がせ、自分の根拠地であった相模国鎌倉郡を婿に譲ってしまった。

これを契機として「桓武平氏」の勢力圏であった東国が、「清和(河内)源氏」のものとなっていく。平直方の子孫は、北条、熊谷などと名乗るようになり、いわゆる平氏系統の「坂東武士」として土着した。最も初期に土着したのは、平国香の弟の平良文の子孫である千葉、畠山、三浦等である。

他方、平国香の孫の平維衡の代に伊勢に本拠を移したグループは、「伊勢平氏」と呼ばれ、後に平家による政権を樹立する。  

さて、源頼義に嫁いだ平直方の娘は、嫡男不動丸を産んだ。後の八幡太郎義家である。源頼義と義家の父子は、東国において、覇権を獲得した後、陸奥国への進出を目論む。 

前九年の役が勃発した1051年、源頼義は、陸奥国奥六郡を支配する安倍氏に敗れた陸奥守藤原登任の後任として、陸奥国政庁の多賀城に入った。

(つづく) 

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