弔辞屋

 「では、問題なければ、こちらの内容で、私のお手伝いとさせていただきます」

   山口は今回もいつも通り仕事を完了した。

 弔辞屋ーー遺族から依頼を受け、告別式での弔辞の文面を作成する。それが山口の仕事だ。弔辞は遺族が自分で文面を作るもの。というイメージが一般的であるため、この仕事を世間には公表していない。友人や知人の前では、葬儀屋だということで通している。

 「文章を作るなんてとてもできない」「悲しすぎて何も考えられないけど、弔辞を頼まれた」「弔辞で伝えたいことはたくさんあるが、どうまとめたらいいか悩む」山口に依頼する遺族の理由は様々だ。依頼者(遺族)の思いを聞き、文章にして、渡す。人の死と向き合い、遺族と向き合う難しい仕事だと山口自身も思ったが、不思議とトラブルというトラブルがない。それだけ依頼者の心に余裕がないということなのだろう。弔辞の文面を渡すとき、山口は「納品」という言葉を使わない。「納骨」を連想させるからだ。
 
 山口が弔辞屋をはじめた動機は、テレビでタモリが弔辞を読んでいるのを見たことだった。「こんなことを言える人になりたい」。知り合いの葬儀屋に協力を仰ぎ、弔辞に困っている人を紹介してもらううちに、安定して仕事が入るようになった。ひとつの家族が弔辞屋を知ると、その親戚に不幸が出たときにまた依頼が来る。親戚から別の親戚へと口コミが広がる。弔辞屋一本で食っていけるだけになるまでに、そう時間はかからなかった。

 山口は決して仕事を断らなかった。そうでなくても弔辞屋は、とにかく時間がない。故人の死後、身辺整理などが終わりいよいよ葬儀に向けてというところで、はたと弔辞のことが頭をよぎる。そこから依頼になるので、正味2-3日の勝負だ。「なぁお前、なんて声をかけたらいいんだ」「あの時のこと、覚えているか?(このあとに思い出を語ってください)」「先に逝ったこと、ちょっとうらやましいよ」「もうすぐ俺もそっちへいくからさ」ーースピードの勝負という経験を積むうちに、山口の中で定型文のストックが出来上がっていた。


 その日の依頼は、山口の想像を超える人物からだった。小学3年生の子供からの依頼。母が亡くなった。喪主は父だ。それでも、「自分の言葉でお母さんと話したい」という思いからの依頼だった。これには山口は困った。きちんと文章として成立した、いわば大人向けの弔辞しか書いたことがない。今まで通り書いたって子供が読めるわけがない。ひねりにひねった結果、山口はこんな弔辞を描いた。
 「お母さん、元気?(あとは普段通りお母さんにその日あったことを話してください。話せなくなったら、「じゃあ、おやすみ」でおしまい)」

 そんなことを続けながら、弔辞屋として20年も過ぎた頃。山口の母が死んだ。喪主は父が務め、父の希望で弔辞は山口が読むことになった。自分が弔辞屋だということは、家族も知らない。父が知っていて頼んだのかどうか、山口は聞こうとしたが、やめた。知らなかった時あと戻りができないからだ。

 何百もの弔辞を書いてきた山口の筆が、全く進まない。憧れだったタモリは白紙で弔辞を読んだというが、とても怖くてそんなことはできない。汗を書くように涙を流した。母が死んだ悲しみの涙というより、書けない苦しみからの涙だった。

 告別とは、「別れを告げる」ことでもあるが、「告げて、別れる」ことでもある。告別式当日、山口は祭壇の前に立った。
 
 「ずっと言えなかったことがあります。僕の仕事は、「弔辞屋」という仕事です。弔辞を書く仕事です。いまこうして話していること。人が話すこの文章をずっと書いて僕はメシを食ってきました。お母さん。あなたが亡きいま、僕は僕の弔辞が書けません。言葉を生業としながら、言葉によって自分を偽り、人を欺いてきたということでしょうか。お母さん、悲しすぎ
て、何を言っていいかわかりません。


 僕は弔辞屋なのにね」

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