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38 拉致(アブダクション)

深夜のことだった。部屋の窓から突然まばゆいばかりの光が差し込み、男は眠りを妨げられた。何事かと起き上がるとベッドの脇に影が立っていた。それは怪しげにゆらゆらと揺れ、こちらを見定めるようにしていた。

影にわっと襲いかかられた次の瞬間、男は何もない真っ白な空間に連れていかれていた。光源もないのに隅々まで煌々と明るい場所だった。すべてが白く、壁や天井の境目も分からなかった。

自分がどこにいるのか見当もつかなかった。台の上に寝かされた男は、縛りつけられているわけでもないのに身動きが取れなかった。強力な磁石で台に張りつけにされているかのようだった。

さらわれたのだという答えにたどり着くのに時間はかからなかった。一体誰がそんなことをと考えると、男の脳裏に受け入れがたい考えが浮かんだ。宇宙人だ。宇宙人にさらわれたのだ――。

ふいに目の前の空間が裂け、そこから浮き上がるようにして影が現れた。一つではなかった。いくつもの影が立て続けに現れ、男をぐるりと取り囲んだ。

輪郭のぼやけたその存在は、はっきり見ようとしても焦点を合わせることができなかった。影たちが代わる代わる揺らめく様は、まるで何事か相談をしているかのようだった。

男は俎上の鯉のような気分だった。このまま生きて帰れないのではないかという恐ろしい考えが頭をよぎった。

そのとき、影たちの輪郭のない体から触手のようなものが生え、うねうねと伸びはじめた。

「何をするつもりだ!」

男は恐怖にひきつった声で言った。影たちは何も答えなかった。否応なく、人体実験という言葉が思い浮かんだ。

触手はそれ自体が別の生き物のような動きをして、時が満ちるのを待つかのように宙をのたくった。男はなんとか逃げ出そうとしたが、体をわずかに浮かせることさえできなかった。

「やめ、やめろっ」

聞き届けられるはずもなかった。触手が一斉に男に襲いかかった。何本もの触手が寝間着の隙間という隙間から入り込み、そして――、一斉に男の体をくすぐりはじめた。

「……ひゃ、ひ、あひゃ、ひへへへへ、や、やめっ、やめれへへへへ、あひゃひゃ、うひっ、やめっ、やめてやめて、むりむり、ひ、いひ、うひゃひゃひゃ――」

男はさっき逃げようとしたときよりもずっと本気で身をよじって脱出しようとした。無理だった。やめてくださいもう無理です死んでしまいます。懇願したが、影たちはやめなかった。

「むりむり、やめっ、いひっ、あひゃひゃひゃ、むぐっ、んぶっ、えへれへれへれ、えへへへれ、ひひ、ひっ、もうやめ、んひっ、ちょっ、げへげへへへ、あへあへひへはへ――」

男の狂ったような笑い声が、真っ白な空間にいつまでも響いた。



いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。