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巨星 堕(お)つ。ラリー界のスーパースター篠塚建次郎氏を偲んで・前編

光り輝く大きな星といえるラリー界のスーパースター、ケンジロウこと篠塚建次郎氏が2024年3月18日に膵臓癌で亡くなった。
日本人のラリープロドライバーとして、走ることを職業にして活躍した数少ない一人だった。
同じラリー界に身を置いた私から見た彼のエピソードを書いてみたい。

■ 私から見たケンジロウ


彼と私は同い年である。私がラリーに興味を持った頃には、彼はもう三菱の準ファクトリー選手として、活躍し始めていた。
当時の国内ラリーの頂点は、日本アルペンラリーだった。
私が、1971年の第13回日本アルペンラリーに出場したとき、当然彼も三菱チームとして出場していた。出場は過去最高の115台だった。

我々はプライベートチームであり、彼は三菱のファクトリーチームだから、同じギャランに乗っていても、車のレベルには大きな差があった。
途中の成績を見る時、トップとの差を見るのはもちろんだが、多くの選手は「ケンジロウ選手との差」も比較対象にしていた。その位ケンジロウは、一つのバロメーターにされていた。

結果、彼は5位。我々は15位。我々は、プライベートチームとしてはまあまあの良く出来た成績だった。
ゴール後、三菱の機関誌のインタビューを受け、プライベートチームの三菱車の中で3位となり、賞金3万円ももらった。
その時のインタビュアが、後に世界のケンジロウと言われるようになる篠塚建次郎育ての親と言われる山崎英一氏だった。


第13回日本アルペンラリー 
ゼッケン53番の我々のギャランは15位入賞。
篠塚建次郎選手のチームは5位だった。

その後のある時、私は「ラリーで飯が喰えないか」と思ったことがある。その時、日本においてラリーで飯が喰えるのは、2つしかなかった。もちろんその2つとも募集などしていなかったが、勝手に考えた。

☆ 一つは、三菱に入り、ラリードライバーになること。
自動車会社がモータースポーツをやるのは、宣伝の為である。

☆ もう一つは、日本アルペンラリーを始めとして、北海道から沖縄まで、ラリーを主催する日本モータリストクラブ(JMC)に入り、コース設定で全国を走り回ること。
JMCは日刊自動車新聞社の子会社であるから、JMCに入ることはすなわち、新聞社の社員になることでもあった。
新聞社がそのようなことをやるのは、例えれば読売新聞がプロ野球を、朝日新聞が高校野球を立ち上げたように、日刊自動車新聞社は、ヨーロッパにあるような本格的な山岳ラリーを開催し、モーターリゼーションの普及を図ろうとしたからである。

しかしそこで冷静に考えてみた。
当時ラリーといえば、自動車メーカーのなかで三菱が群を抜いていた。その三菱に入れてもらい、ファクトリーカー(メーカーが用意するラリー仕様車)に乗り、走り回れたらどんなに良いだろう・・・。
でも既に三菱には、ケンジロウが居る。今更私が何のコネもない三菱を訪ねて「ラリードライバーとして雇って欲しい」と言っても無理だろう。それにプロドライバーになれば、それこそ命がけで走らないとならない。

メーカーは「その選手を勝たせたいのではなく、自社の車で勝ってくれる人に乗ってもらう」のである。それで三菱に入る案は、自分の中でボツにした。

残るもう一つの方法である日本モータリストクラブ(JMC)に入り、プロのコース設定車としての方法は、最初断られたが、粘りに粘って臨時採用試験をしてもらい、成功した。


1972年の第14回日本アルペンラリー スタート前の撮影。
右が篠塚建次郎選手。車は三菱のコルトギャラン。
奇しくも、ゼッケン番号は、前年の我々と同じ53番。
結果は4日間で2100㎞走り2位。
今にして思えば、何故篠塚建次郎選手がこんなに遅い番号だったのか不思議だ。
(ラリーはゼッケンの若い方が、コースが荒れないから優位性がある)
因みに、この大会で私は、最終のコース管理者として全コースを走った。


私はコース管理者として、全コース最後尾を走った。
車はToyota・コロナ1900SL
白いレーシングスーツ姿の人が、第1回日本アルペンラリー優勝者にして、
今回のラリーの審査委員長の古我信生氏。

■ケンジロウは走る側のプロ。私は走らせる側のプロ。


こうして、篠塚建次郎氏は走る側のプロであり、私は走らせる側のプロとなった。

すると当然、同じ世界にいるから接点ができる。彼は時々、当方のJMC事務所にも来ることがあったから、お互いにその存在は知っている。でもあまり親しく話をするなどの関係ではなかった。

ある時、名古屋で三菱がラリー車展示会イベントをしたことがあった。丁度私もその時名古屋に居たので、その会場となった三菱ディラーのショールームに行ってみた。すると篠塚氏が、向こうのステージの方に立っていた。
彼は、遠くの方から私の存在を知り、「おっ、来てくれたのか」という顔をしてくれた。イベント最中なので、私は会釈する程度で、その場を後にした。
でも、彼が私のことをプロのラリーコース設定者として認めてくれていることを嬉しく思った。

篠塚建次郎氏のいる三菱のラリーチームのリーダーは、木全巖(きまた いわお)氏だった。後年、その木全氏から、「茶木さんには、いろいろな所を走らされたねー」と言われた。私がラリーに興味を持ち始めたころ、バイブルのようにした本が1冊あった。それは「ラリーへの誘(いざな)い」で、その著者が木全氏であった。
その人から、そのように言われたのは、大変うれしかった。

その言葉の中には、木全氏自身が走ったラリーはもとより、1981年に私が主宰するオートライフクラブ(ALC)主催、全日本選手権のALCクリスタルカップラリーに篠塚建次郎選手が参加し、走ったことも含まれていると感じた。

その木全巖氏のことや、篠塚建次郎育ての親と言われた山﨑英一氏のことは、次回記したい。

#ラリー #篠塚建次郎 #ケンジロウ #シノケン #三菱 #木全巖 #山崎英一


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