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アルペンスキーに人生を懸ける男 斉藤博物語 第6章~第7章 アマ・コーチからプロ・コーチへ

第6章 
アマ・コーチに。かもい岳レーシング誕生




1.  かもい岳ジュニアレーシングチーム誕生


若いこれからの選手には、自分みたいな思いをせず、もっと合理的に、もっと効率的に世界に通用する選手になってほしい。
選手として立派な金字塔を建てながらも、斉藤はジュニア選手養成のそんな夢をもち続けた。

その思いが天に通じたのか、理解者が現れた。
それは「歌志内に来ないか」と声を掛けてくれた中野一昭・観光係長と、染谷正志・歌志内スキー連盟会長だった。

その二人を中心とした周りの協力も得て、1976年(昭和51年)2月、かもい岳ジュニアレーシングチームが誕生した。地元の子供達約70名が会員となり、結成式をあげた。
しかしこの時点ではまだ、スポーツ少年団的要素が強かった。そして年月の経過とともに徐々にレーシングチーム的な要素が強くなっていくのであった。

かもい岳レーシングチームの結団式
1976年(昭和51年)2月


2. 選手引退、そして結婚


さて、市の職員として働き、選手を続け、この日まで来たが、国体優勝や北海道選手権優勝などの有終の美を飾った今シーズンで選手を辞めて、後進の指導に当たりたいとの思いが日に日に強くなった。

そして彼は今シーズン限りで引退を決意した。

まさに「功成り名を遂げて、身引くはこれ天の道なり」で、ピークのときに身を引くと、他人は一番いい時のその人のイメージを持ち続けてくれ、それが次の人生での大いなるプラス要素になる。

そして市の正式職員となるこの年の5月下旬、婚約者中嶋久子と結婚することとした。

それを聞いた市長は自らが仲人となってくれ、二人は結婚式を挙げた。市の職員やスキー関係者が多く集まり、祝福してくれた。


3. 始動した、かもい岳レーシング


かもい岳レーシングは、ジュニア選手養成が目的だが、ジュニアを略して、かもい岳レーシングと称することが多い。そしてかもい岳は、そのスキー場のある山の名前で、正式には“神威岳”と書く。したがって当初は“神威岳レーシング”と記していた。神威(かむい)はもともとアイヌ語であるが、神威岳と書いて、人々は「かもい岳、あるいは、かむい岳」と、二通りの呼び方で読んでいた。
後年これを“かもい岳レーシング”とひらがな表記にしたのである。

1976年(昭和51年)は、1月から始まった斉藤の優勝また優勝の快進撃、2月のかもい岳レーシングチームの発足、シーズン終了の4月の選手引退、そして5月の結婚と、特記すべき年となった。
さあ、ここから、斉藤の次の夢、「世界に通用する選手を育てたい」という夢に向かっての歩みが始まった。

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