何故に飛べなかった三菱スペースジェット機
1. 15年の歳月 虚し
何時まで経っても飛ばない三菱MRJ機。近年名前を三菱スペースジェットに変えた。それでも飛ばない。正確に言えば、試作機は一応飛んだが、商業ベースの量産機1機も製造できていない。
2008年の開発着手から約15年。経済産業省も500億円をつぎこみ、最終的には1兆円という多額の開発費をかけたのに、一体何をしていたのだろう?
私の脳裏には「これは技術的問題だけでなく、何かあるな」という思いが巡った。
三菱には、飛行機に関する技術はある。ゼロ戦やYS11を見れば分かる。
■ ゼロ戦(三菱艦上戦闘機) 開発から約2年で飛行。生産機数10,450機。
三菱が設計、エンジンは中島飛行機(現SUBARU)の榮型エンジン。
製造は三菱と中島の両社が行った。
■ YS11(国産初の旅客機) 開発から5年で飛行。生産機数182機。
三菱のゼロ戦設計者堀越二郎をはじめ、日本の航空機の名だたる人が集まり進行。その後の開発は三菱から出向の東條輝雄が引き継ぎ完成。
エンジンは、イギリスのロールス・ロイスのダート10エンジン
■三菱スペースジェット 2008年の開発着手から約15年経たが、量産機は1機も作られず撤退。三菱の機体に、エンジンはP&W(プラット&ホイットニー)のPW1200G
2. 飛べなかった3つの要因
技術はそれなりにあるのに、どうしたのだろう? これはYS11の時の商業的失敗と似た構造があると思った。
軍用機なら国が確実に買い上げてくれる。しかし商業用の旅客機は、採算ベースに乗せる必要が当然ある。だから幾らで売りたいか、いくらなら買って貰えるかを決め、それから逆算して製造コストを算出しなくてはならない。つまり減算方式だ。
ところがYS11は、加算方式を取った。
これはこの部品は幾ら掛ったというから、それを全部足し算していくのである。するとコストはどんどん膨らむ。だから同程度のライバル会社の機体と比べると、高くて売れない。
まぁそれを、あの手この手で何とか売り込んだ。例えば相手国に政府がお金を貸し、そのお金でこの飛行機を買って貰うなどの手法である。
結局は、商業的に失敗である。
三菱スペースジェットの時も、この体質を引きずっていたと思う。だから当初の開発費が1500億円だったのが、その6.5倍の1兆円にもなった。それでは量産しても売れない。
そしてbujiness journalは、2020年12月に次のように述べている。
1・三菱重工と経産省の自信過剰
2・開発当初は自前主義にこだわったが、方針を転換。着手から10年が経過した2018年、カナダの航空機大手などから外国人技術者の“助っ人”を多数、集めた。
しかし、「プライドの高い三菱重工側の技術者とそりがあわず、現場では対立が続き、開発はさらに遅れた」(航空業界担当のアナリスト)。
「歳月人を待たず」で、15年の年月が経ち、時代遅れの飛行機になってしまった。
最終的に私は、スペースジェットが世に出ることができなかったのは、次の3点にあると思う。
1・YS11と同じく、加算方式をとったこと。
2・三菱重工と経産省の自信過剰
3・内部の対立
3. 国民一人当たり420円の投資は帰らず
売れない演歌歌手と、飛べない飛行機ほど、みじめなものは無い。
淋しいなぁ~
ところで経産省が援助した500億円は日本国民の金である。一人当たりにすると420円。3人家族なら1230円負担したことになる。我々は一人420円を政府経由でこのプロジェクトに参加していたようなものだ。
そのお金も返ってこず、夢と希望を乗せた翼は飛び立つことが出来なかった。
物造り日本、技術国日本よ、どこへ行く?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?