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甲斐大月「岩殿山」と小山田信茂【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了し、心の拠り所となってきた英雄がいる。

彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。

群雄割拠の戦国時代、自領(領土・領民)を守るため、弱者が強者に従属を申し入れることは珍しいことではなかった。

甲斐・武田氏滅亡直前に織田方への従属を決断し、“不忠”の汚名を着せられた小山田信茂。

近年、信茂の見直しと再評価が進んでいる。

今回は山梨県大月市の「岩殿山」(634m)周辺に残る小山田氏と武田氏にまつわる哀史を紹介する。


秀麗富嶽十二景、山梨百名山の一

山梨県を2分する御坂山地と大菩薩連嶺の東方、富士吉田市、都留市、大月市、上野原市の4市と北・南都留郡2郡の地域を「郡内」という。

郡内の語源は、戦国時代に都留郡を領有した小山田氏が武田氏本領の「国中」に対し、自領を「郡内」と称したことが起こりとされ、江戸時代の行政区分として甲州が「九筋二領」に分けられたとき、正式に「郡内領」(郡内藩・谷村藩とも)と呼ばれるようになった。

郡内地方の主要駅の一・大月駅の北東約1㎞に聳える「岩殿山」(634m)は、大月市のシンボルで市が選定する秀麗富嶽十二景や山梨百名山の1つに数えられる。

「岩殿山」は平安時代前期に天台宗の岩殿山円通寺として開創されたといい、鎌倉時代には天台系聖護院の修験道の地として栄え、その影響は甲斐国の国中や駿河国の富士郡付近まで及んだという。

この間、武蔵国多摩郡小山田庄を拠点としていた小山田氏が同地に移り、中津森や谷村を本拠に勢力拡大。やがて国中の武田氏、河内の穴山氏と甲斐を3分する力を示すようになる。

そして戦国時代、守護大名に代わって戦国大名と呼ばれる勢力が出現すると、甲斐では武田氏が大永年間(1521~1528)から享禄年間(1528~1532)にかけて郡内に侵攻。小山田氏は武田氏に従属し、その国衆として郡内の領域支配を担うようになった。

国衆とは、戦国大名の領国内で自治権を認められた領主のこと。かつては小山田氏領の直轄化を図る武田氏に小山田氏が抵抗する対立構図が考えられていたが、近年、武田氏は小山田氏領を緩やかに統治しつつ、その軍事力を活用しようとしていたとみられている。

関東三名城の一・岩殿城

「岩殿山」の山上に築かれた「岩殿城」は、南に「鏡岩」(古くは「大黒岩」)と呼ばれる大岩壁が聳え、その直下に桂川、東に葛野川、西に浅利川が流れている。

江戸時代初期の軍学書『甲陽軍鑑』は、天然の要害に守られた岩殿城を上総国の岩櫃城、駿河国の久能城とともに関東三名城に数えていた。

ただ、この岩殿城ーー築城者や築城時期について詳しくはわかっていない。

天文元年(1532)に小山田信有によって築城されたといわれるが、さきの『甲陽軍鑑』にも小山田氏の城という記述はないという。

岩殿城が小山田氏の居館・谷村館に対する詰城(緊急避難用の城)といわれるようになったのは、江戸時代中期から後期にかけての地誌『甲斐名勝志』や『甲斐国志』が成立してから。

以来、岩殿城は小山田氏の城と考えられてきたが、一時期、この城を谷村館の詰城とするには10km以上離れていること、本能寺の変の前年、天正9年(1581)3月に武田勝頼が横目付衆の一人だった荻原豊前に岩殿在番と普請を命じていたという事実から、武田氏の城と理解されていた時期もあった。

しかし、戦国大名に従属した国衆が緊急事態時に領内の城砦へ大名の軍勢を駐留させることは決して珍しいことではない。

武田氏が岩殿城に荻原豊前に在番を命じたのは、天正8年5月に相模・北条氏が郡内(上野原市付近)へ侵攻したことを受けてのこと。近年、岩殿城は武田氏ではなく、小山田氏の城であり、その領域支配と防衛拠点として築城されたという見方が妥当とされている。

すべては自領を守るため

武蔵国と相模国と接する郡内は、甲斐・武田氏の軍事的拠点であり、岩殿城を詰城とした小山田氏は国境警備の役割を果たしていた。

この頃、郡内は再三にわたって相模・後北条氏の侵攻を受けたが、小山田氏は武田氏から援軍を派遣してもらうことで凌いでいたという。

ところが天正9年(1581)3月、武田氏の遠江侵攻の最重要拠点だった高天神城が陥落。武田氏の当主・勝頼はこの城を助けることができず、天下に面目を失った。

高天神城を見殺しにした勝頼は、おそらく小山田氏の当主・信茂の目にも頼りなく映っただろう。

さらに天正10年2月、織田信長・徳川家康による甲斐侵攻が開始されると、勝頼は次々と軍事的拠点を放棄した。

そうした状況を目の当たりにした信茂は、岩殿城入城を求める勝頼を拒否し、織田方への従属を決意する。

すべては自領(領土と領民)を守るためだった。

天正10年(1582)3月11日、勝頼は天目山麓の田野で自刃し、武田氏は滅亡する。

国衆家当主として、信茂の決断はやむを得かったといえる。否、彼は既存の戦国大名とは一線を画す織田信長に従属するしかなかっただろう。

しかし、織田方は信茂を武田氏の家老とみていた。

戦国の世の習いどおり、人質を差し出して織田方に従属しようとした信茂は、総大将・織田信忠(信長の嫡男)から武田氏への“不忠”を咎められる。

そして武田氏滅亡から13日後、織田方の本陣・甲斐善光寺で信茂は処刑された。享年44。

郷土を戦火から守った英雄

武田氏、小山田氏が滅亡したあと、甲斐国内は混乱を極めた。

岩殿城落城にまつわる伝説だから、この頃のことだろうか。

小山田氏は平時より岩殿城から大菩薩連嶺の1つ「雁ヶ腹摺山」方面へ逃れる避難路を確保していたといい、情報が錯綜するなか、城に残された者たちが脱出をはかったという。

堅手門から大手門、築坂峠、兜岩を経て、彼らは「呼ばわり谷」と呼ばれる大岩壁に辿り着いたのだが、ここで1人の赤子が泣き出してしまった。

泣き止まないわが子をどうにかあやそうとする母。しかし、泣き声は大岩壁にこだまし、こだまがこだまをよんで跳ね返ってくる。

疲労と焦りから、母はこの反響音を追っ手の鬨の声と錯覚した。

(周りを巻き込むわけにはいかない)

窮した母は岩壁の上でわが子を手放し、まもなく自ら命を絶ったという(赤子は拾われ、浅利郷の名家の子として成人したとも)。

郡内の人々が代々語り継いできた「呼ばわり谷」「稚児落とし」と呼ばれる悲しい物語からも、当時の混乱ぶりがうかがえる。

その一方で、近年、郡内地方を中心に小山田信茂の再評価が進んでいる。

郡内の人々は、武田氏滅亡の直前に信茂が下した決断は自領を守るためだったと評価した。

確かに。

あのとき勝頼を岩殿城へ受け入れていれば、織田・徳川の大軍が押し寄せただろう。

自らの命と引き換えに郡内を戦火から守った信茂は、今、郷土の英雄として讃えられている(了)

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国立国会図書館デジタルコレクション

【主な参考文献】
・土橋里木・土橋治重著『日本の伝説10 甲州の伝説 』(角川書店)
・丸島和洋著『郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』 (戎光祥出版)
・丸島和洋編『論集戦国大名と国衆 5 甲斐小山田氏』(岩田書院)
・山下孝司・平山優編『甲信越の名城を歩く 山梨編』(吉川弘文館)

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