いよいよ諏訪商店にVOL-7

いよいよ諏訪商店に入社した。1996年のこと。前の会社を1995年の12月に退職し、諏訪商店に、1996年3月1日に入社した。前の会社を辞めたのは、中小企業診断士の2次試験に受かり、3次試験は2週間会社を休まなくてはならなかったこと。あと妻にプロポーズし結婚を考えていたこと。この2点。

そして、2か月間何していたか?というと中小企業診断士3次試験いわゆる実習研修を2週間受けた。新宿のしょんべん横丁のすし屋と、どっかのなんとか銀座商店街の2つ企業診断をしたよ。
あと、せーちゃんの大学受験の付き添いを2月の間やっていた。
そして、いよいよ諏訪商店入社!まーいままでいろいろなことがあったよ。本当に。本当にいろんなことがあった。
入社初日、洗礼を受ける。私の部下になった25歳年上の人から、辞表届をたたきつけられた。そりゃー面白くないよね。24歳の若造がいきなり上司だもんね。はっきり言って、むかついた。今に見てろよ!と肚の中にその悔しさは閉まっておいた。と同時に、心の中は、メラメラとやる気で燃え上がっていたぜ。

そして、入社初日の夜から、3日間、毎晩父と話し合いが始まった。当時、諏訪商店はスーパー事業に進出し東京に出店していたのだ。その店の調子が良くない。私は撤退を進言した。決算書を見て、どう考えてもやっている意味がないし、このまま行くと本体に大きな影響を及ぼす。父は、あと3年やれば10年だと言う。撤退しない理由、打開策を言うのだけど、どう考えても現実的でなかった。説得も虚しく3日目の夜、もう夜中の2時半。寝ようと言うことになり、私は、後継者が持つ伝家の宝刀を早々と抜いた。
私「撤退しないなら、俺、諏訪商店継がないから。」
この言葉は、父に効いたらしい。次の日の朝、私が起きると既にスーツに身をまとっていて、当時の常務も家の玄関のところにいた。
父「スーパーに行ってくる。撤退する。」
うちの父はやると決めたらめっちゃ早い。早すぎる。さらに次の日、スーパーの仕入れを全てストップ。小切手を全て10%引きで切って、その上で業者を1社1社呼んで交渉し全て支払ってしまった。そして、閉店セール!過去最高の売上をあげた。出店していた場所はもちろん賃貸で、撤退には、原状回復しなくてはならない。およそ4000万円かかる試算だったけど、居抜きで借りたいというスーパーを見つけてきた。どうやって見つけたんんだろう?そして、冷蔵庫とかレジとか、そのスーパーに1000万円で売却した。撤退に携わった父と常務をみていて、なんというかタダでは起きないというか、執念といういかすごいものを感じたよ。

そんな中、運はさらに味方する。ドライブインの出店の話が来たのだ。そのドライブインの半分を借りることになった。諏訪商店に入って、いきなり私の仕事は新規出店だ。諏訪商店は卸売業だ。だから、小売のDNAはあまりない。スーパーは東京だったし、別会社だし、ノウハウは蓄積されてない。
出店にあたり、スーパーに失敗した理由もわかってきた。DNAだ。諏訪商店には小売のDNAがまったく欠如していた。店員のことを店番と言うし、店にいてもやることないだろう?と平気で言う。あいつは、店で何しているんだ?という始末。マーケティングとかそういう概念はなかったので、その辺はとても残念だったけど、自分で打開していくしかない。小さなお店だったけど、いろんなことを試した。試食販売の方法とか、陳列方法もあれこれ変えたり、チラシを考えたり、仮説と検証の繰り返し。
この出店は、諏訪商店にとって神風だったし、通信販売への足掛かりとなりのちに出店した房の駅の足掛かりとなったと思う。
私は、この時期、社長になるまで会社のDNAの素晴らしさ、怖さ、そして変え方を学んだのだと思う。

あんちゃん、せいちゃんと合流まであと6年!

そして今回の教訓はこうだ!

「上司や先輩の良いところを真似をし、学ぶこと。そして悪いところをカバーし、正していくこと」だぜ!

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