見出し画像

思い思いのゴースト・ストーリー

子供の頃、死んだら人はどうなるのかということを考えるのが怖くて、いや、怖いというか途方もなくわからなくて、目をそむけたり瞑ったりしてきて、それは大人になってもそんなに変わらないまま気づいたら40歳を越えたころに愛猫ポチを亡くした。さっきまで小さく息をしていた身体が鼓動を打つのを止めたとき、名前を必死で呼びながら手やしっぽを触っていた僕に「あ、魂が抜けていった」と感じた瞬間が確かにあって、多分初めてそれから魂はどこへ行くのか、どこにいるのかを考えるようになったと思う。どんどん冷たく固くなっていく身体に頬を寄せながらも僕は居間の天井あたりを眺めてポチに話しかけたし、お葬式のときには煙突から昇る煙にその形を探した。

足元を透明な影がふっと走り抜けたり、顔を洗っていたら背中を小さな手でポンと押されたり、四十九日までの間にポチの仕業だとしか思えないいくつかの事象が実際自分に起きたときに、「ああ、やっぱり、こういうことってあるんだなあ」と思って、それがとても嬉しくて幸せで大きな慰めになった。あんまり人に話したくなくて、自分だけの宝物みたいな出来事。お盆とかお彼岸なんかも意識するようになったのはポチがきっかけだ。父が亡くなったときも「おばけでもいいから」と僕にしかわからない何らかの働きかけを待望んだ。

4年くらい前に奥野修司著『魂でもいいから、そばにいてー3.11後の霊体験を聞く』という本を読んでいろんなことを考えた。もっと言うと、いろんなことを考えることについて考え続けた。そしてつい最近『呼び覚まされる霊性の震災学ー3.11 生と死のはざまで』という本の存在を知り(奥付を見ると『魂でもいいから』よりも前に出版された本で、これは大学生の卒業論文集という性格上『魂でもいいから』よりもっと淡々としている)先週読了して、いろんな想いがぐるぐると渦を巻いている。生と同じ数の死があり、ひとつの死には等しくそれまで生きたそれぞれの時間と繋がりがある。パチンとスイッチが切れるみたいになんにもなくなると思えない、と僕は考えて、またいろいろ考え続ける。永遠の問いかもしれないな。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?