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ほんとの願いに気づくまで

いつからか人に会って話を聞くことがライフワークになった私の人生。人と会って話すって楽しいし、エネルギー使うけど実は大好きです。でもリーディングはちょっと違って、ちゃんと聞くってすごくやっかいです。力まずにできる時もあるから続いてるのだけど。「特に悩みはない」という前置きから始まるどうでもいい話とか、「タロットを信じてない」という前置きから始まる(ではなぜリーディングに来たのか?)が永遠にわからない話が続くときでも、決して途中で口を挟まないことが大事です。話にオチを求めない。関西人だから?かは知らんけどですが、今の私はただ黙って聞くことのできる人に憧れていて、ある時から完コピしようと決めました。今は決してできないことも真似し続ければ大丈夫。そこに憧れる気持ちさえあればたいていのことはできるようになるから憧れたのだと思ってやってます。

質問とは関係ない話が長くなったせいで、リーディングする時間がなくなる時、少し前までは正直イライラしていたと思うのです。せっかちな性格なのもあるけど、話を親身になって聞けば聞くほど、相手に依存されていく感じがしんどかったのでしょう。花屋時代は、お客さんの孤独や依存性まで抱え込むことが仕事だと思っていたので、てっきりその時に押し込めた感情の名残りだと思っていました。
でもある時ふいに、イライラの理由が時間がなくなることへの焦りや、知らない人から依存される立場への拒否感にあるのではなく、私のお金に対する歪んだ考えにあるのだと気づきました。
話が長すぎてリーディングできなかった場合、延長するかどうかを一旦リーディングを中断し相手に確認するのが嫌だったし、私の仕切りが悪いせいだと思っていた私は、延長しても最後まで無料でやるべきだと思っていました。
お金に価値を置き過ぎて普通に請求できなくなっていたのです。いつしか大した悩みがないなら来ないで欲しいと思うようになりました。でも潜在意識では、なるべくならお金の話をしたくないと思っていただけなのです。
あと、目の前にいる他者は私とは違う人間だから、私の考えを理解できない相手だと思っていたし、悩みがないとか言いながらリーディングに来る矛盾も許せず、自分に向き合う勇気がない人だと区別して実際のところ見下していたのかもしれないです。人を見下すなんて私のキャラじゃないと思い込むことで仕事が与えられていると思っていたとしたら、イライラしてることがバレたら終わりなわけです。たぶんずっとそういう世界に生きていました。でもひとつ気づくとすべてが理解できることってあります。その瞬間から何もかもが腑に落ちていく。時々イライラしたって、時々人を見下したって、お客さんに対する純粋な仲間意識や、タロットを通して心が弱っている人を応援したい気持ち、人と話して笑い合う時の優しい気持ちは決して消えないことが理解できていなかった。自分に対する理解がまるで子供だったのです。

ホドロフスキーは、どう生きていきたいかが決まってない人や、人生の目的が決まってない人は癒せないし救えないと言っていました。だからまずやるべきことは「これからどう生きていきたいのか」を探ること。自分の内側に必ず答えがあると信じてやってみること。それだけです。そこだけに意識を向けることです。引いたカードの一枚目に「21番の世界」が出る人は、そのあたりを探っていくと、必ず何か見つかります。すごく面白いからやってみてほしい。

本当のことを言えば辞めるしかなくなる(と本人が思い込んでいる)職場や、嫉妬するような人は誰ひとりいない(と本人が思い込んでいる)友人関係。人格破綻しているような親でなければ、自由を求めてはいけない(と本人が思い込んでいる)家族。剥き出しの感情を見せたら最後、私の味方になってくれる人など一人もいなくなってしまう。こんなふうに世界を見てる時って、誰にでも少しはあると思います。ほんとは頑固になってる自分に気付きながらも、そうなっただけの正当な理由を常に説明したり、探してしまう時。心がちょっと疲れている証拠かもしれない。

タロットで自分を知る時間が楽しいことではなく、隠してきた感情を曝け出す行為だと思っていると、その行為によって自分の矛盾を認めなければいけない。それは常に正しくありたい人にとっては屈辱になります。だから最初は本当に興味があって予約したとしても、なにかをひたすら隠し通すための戦いになってしまう。例えば彼女は、へらへらと笑っていれば負けたことにはならないと思っているので、常に笑っているのかもしれない。それでもイライラせず、私がただ彼女の話を聞くことができた時、彼女の本当の願いが伝わってくることがあります。その純粋な想いが私の中に入ってくる時、彼女の口から核心をついた質問が出てくることが多いので、やっぱり私は時間もお金も解放し、ただひたすら聞くことに集中したいと思うようになりました。

最近は、人間が潜在意識で抱く願いは自分が思うよりもずっと繊細で、感情的なことだと思ってます。戦争のない平和な世界を望んでいる気持ちに似てる。仕事のできない馬鹿で意地悪な同僚だと言ってたけど、朝と帰りの挨拶は優しい気持ちで交わしたいのかもしれない。喧嘩してから会っていない女友達のことは忘れたと言ってたけど、実家から届いた美味しい林檎をお裾分けしに行きたいのかもしれない。本当の願いってそんなものだとしたら、わかることがいっぱいあります。今は無理だと思っても、純粋な願いを叶えることのできる人に憧れてさえいれば、いつか必ず自分の背中を押す時がやってくる。その時だけは、逃げずに勇気を出すしかないのだと思っています。