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古典研究/独白(毒吐く)➀

 初めての投稿がかなりのキワモノになった。しかし、言いたかったことでもあるから「良し」としよう。

なぜ古典を読むことに

 後期の大学院の講義「ソーシャルワーク研究」の準備のために岡村重夫氏の著作を40数年ぶりに再読。隔年開講のこの講義は今回で最後になる。少し熱を入れて取り組んでみようと思っている。保育・教育の現職の院生が多い子ども学研究科なので、社会福祉やソーシャルワークの初学者にも興味深く受講してもらうための工夫は大変だ。

国家試験対策テキストの功罪

 初学者の院生から事前に参考書を紹介してほしいと依頼があり、社会福祉士・精神保健福祉士国家試験テキストのソーシャルワークにかかわる8冊を先月から読んでみた。この作業が難行苦行でならなかった。執筆者には申し訳ないけれど、おもしろくないだけではなく、そこには哲学や思想がなく、現場実践の困難や葛藤は置き去りにされているように感じられる。そこから刺激や気づきは得られない。実は、こうしたことはすでにわかっていて、大手出版社からのテキスト執筆の依頼は断ってきた。担当する授業は、国家試験用の標準的なシラバスを脇に置いて、独自の内容と構成で取り組んできた。少しはおもしろく興味深いものとして受けとめてもらえたのだと思う。養成校の教員がテキストを用いている姿が全国で展開していることを思うと、自らの立場を守るために護送船団方式で体制翼賛化に貢献しようとする姿に見えて仕方がない。大切なことは、独自性にプライドを持ち、批判を受けることで発展させて、百家争鳴の状態を生み出すことだろう。

ソーシャルワークの新たな夜明けを迎えたい

 日本のソーシャルワークは国家資格制度の誕生とともに、政策意図を実現する技術や生活問題を生み出す社会構造を問わないものに矮小化されて変質してしまったと理解している。また、ソーシャルワークから「臨床」を奪い取り、指導と介入を強めた。つまり、ソーシャルワーカーが「存在する」ことよりも「機能する」ことを優先する思考が広まってきた。だからこそ、国家試験合格後に、現場実践を踏まえた「真の」ソーシャルワークの学びやリカレントが必要になると考えている。

 国家資格に求められているソーシャルワーク論の背景を支えている岡村氏の著作を昨日の朝からフォローして読み終えた。学生時代に引いた線や書き込みに助けられて、岡村理論を批判的に再検討してみた。社会構造や社会矛盾や社会問題が示すところの「社会」が存在していない。つまり、「個人」に対置する平板な「社会」を位置づけて、岡村氏の独自の概念「社会関係の主体的側面」は、社会科学的な社会福祉概念を駆逐することで主流となり、政策主体にとって都合の良い「いい子のソーシャルワーク」を普及することの根拠として位置づけられていく。

 日本のソーシャルワーク史に自己と社会の変革を同時に追求する骨太で哲学と思想が宿るソーシャルワーク論の誕生が待たれる。さもなければ、ソーシャルワークは「支援」の言葉と概念に飲み込まれて消滅することだろう。
ソーシャルワークは技術ではなく方法だ。方法だからこそ、そこには哲学と思想が求められている。技術のみを欲しがる功利主義や成果主義を採用する資本主義経済法則とそのことを堅持する政治こそが、人間存在を軽んじることをとおして生活問題を生み出すことにつながっているのだ。「方法としてのソーシャルワーク」が必要とされている。

 岡村重夫氏の3冊の著作に対して素朴な違和感を持ってから40数年目。ようやくつぶやくことができた。今日は触れなかったが、尾崎新氏のソーシャルワーク論を継承発展させながら、真壁仁に倣って言えば「野のソーシャルワーク論」を構築するチャレンジを人生最後の悪あがきにしようかと思っている。

◇『全訂社会福祉学 総論』柴田書店 1968.3.30
◇『社会福祉学 各論』柴田書店 1963.5.5
◇『社会福祉原論』全国社会福祉協議会1983.1.10
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