ル・コルビュジエに出会う

「家は暮らしの宝石箱でなくてはいけない。」私がこの言葉を知ったのは、「人生フルーツ」という映画の中であって、これがル・コルビュジエの言葉だと知ったのは、先日、国立西洋美術館にル・コルビュジエ展を見にいった時の事。

この言葉は、深いところで心を捉え、さなぎのように私の内側にとどまっていた。
久しぶりの東京での自由時間を過ごすのに、これはどう?と教えてくれた友人のおかげで、人生の中の点と点がまた繋がるような経験となった。

ル・コルビュジエについてほぼ無知に近い私も、世界遺産だという国立西洋美術館の空間は、斬新ながらもすでに私たちの時代のものとして肌に馴染んだ感じのするものだった。そして、これはル・コルビュジエがデザインした建物なのだ。コンクリート打ちっ放し、四角い箱、その中は光が踊るような開かれた空間の連なり、建物の中を進んで行くにつれ、また異なるメロディーが聞こえてくるようなそんな空間だ。実は、いつまでも外へと増殖していける構造なのだという。

黄金比をもとに描かれた絵画から建築へと、その探求は進んでいったらしい。私が展覧会の中で一番長く見たのは、ル・コルビュジエの書斎でくつろいでいる様子の写真だ。いま私がいるこの建物の空間を、彼がこの形にしたのだと感じながら、ずっとその彼を見ていた。ゆったりとした洒落た部屋着、素足にもさもさ毛の生えた暖かそうな靴、丸メガネの彼が手元に何か小さなものを持って眺めているこの瞬間、どんな空間を思い描いていたのだろう?

家に帰ってきてから見つけたル・コルビュジエの名言集より
”自然との契りを求めていた”
”建築は光のもとで繰り広げられる、巧みで正確で壮麗なボリュームの戯れである”
”建築家は新しい言葉を使用するのです。その語とは「やってみるのだ!」”
”数学は人間が宇宙を理解するためにうちたてた堂々たる創造物である”
”それが人間の家であろうが、私は生涯殿堂を描くことに費やしてきた。”

展覧会場は、平日の昼間だというのにものすごい人で賑わっていて、海外からの人もたくさんいた。生前になかなか真価を評価されなかったらしいが、こんなにもたくさんの人がここにあるものを感じたいと思っているようだった。

彼が感じていたものを、この言葉たちと空間に自分を重ね合わせて感じて呼吸をしてみる。高校1年生の時には、建築家になりたいと思っていたと改めて思い出す。それは言葉で詩や文章をつくるのに似た、どこかで感じている何かを、目に見える形にしたい欲求だった。ル・コルビュジエの言う「殿堂」なのかもしれない、何か私たちを生かしている力、生の息吹を表したいという欲求。

そして、生かされている私たちが、その建物の中で日々生活をしている。「家は暮らしの宝石箱でなくてはいけない。」私たちこそが、生きている宝石なのだろうか。

中学時代に数学に興味を持って、建築にも興味を持った私が、高校生になって数学についていけないと思い、文系に進路を定めたことは、ここにきて再び数学に出会った私の気持ちとして別のブログに書いたので、読んでいただけたら嬉しい。
https://www.dawnavatar.com/blog/突然、数学が私の人生に現れる

ここに来て、人生の初期に離れたつもりの数学や建築に再び出会い、それらが今の自分とはこんなにも親しい、近しいものなのだと感じることは、嬉しいことだ。そしてその探求は、新たに始まったばかり。この芽がどう伸びていくのか、しばらく水をやりながら、見守って見たい。

ル・コルビュジエー絵画から建築へーピュリスムの時代 国立西洋美術館(上野)にて5/19まで


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