境界線が溶けている世界で境界線の策定でえんやわんやしている過渡期の世界

ポストモダンの宣告がなにかといってしまうと、基本的には長期的にも境界がなくなって動的に変容されてしまうものだという認識をしている。

これまで既存のものとして当たり前に捉えられていた「男と女」とかそういうのが。

けど、何かそういう「言明」をすること自体、つまりある種の「自己言及」として「境界における境界性の有限性」のようなことを「ことば」として語る"だけ"で、そうではない"別の"のものを境界としてまた策定していくことを、言語を用いたコミュニケーションをする上ではしてしまう。

人間の生物種としての特異性を考えるとやり玉にあがるのはまさにこの「言語コミュニケーション」であるわけで(もちろん、アフォーダンスといった環境における身体的ふるまいもある)、そうである以上、常に"ことば"を介した別のなにかを指し示していく。

なんだかんだで人がコミュニケーションを取る際には、どんなにデジタルメディアが発展しようと、"ことば"でそれを示し、論じ合うという終わりなき"対立"が続いているようにも思える。

けれど、それは人間が人間である上でに「いかに"複数性"を担保できるか」というある種のアーレント的な問いかけを鑑みたときには、むしろそういった「終わりなきコミュニケーション」を続けられることこそが、つまりどんなに社会文化や歴史に染められてしまった存在だとしても"声"をあげることによって、「自己言及」を繰り返すことで、「人間が人間たりうる」ものとして"生きる"ことと言えるのかもしれない。

「生きる」というよりも、正確に言えば「よりよく(よりましに)生きる」ということなのではないかと最近考えている。こうした問が問として投げかけられる以上、僕らは半強制的に問と応答としての「要請」が命じられている。

「個」として生きようとすれば生きようとするほど、複数性に絡まれる、このある意味では矛盾とした「生」を引き取って生きるということ。ちょっとしんどいこともあるが、それこそが「人間の生」としてのあり方を担保してくれている、つまり究極的には個としての「自由」の原点として回帰できると思えば、悪くもないと思う。

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