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小説「天上の絵画」番外編

▼岩谷英司

 ずっと絵が嫌いだった。 

 物心ついた時から、周りを絵に囲まれていた。初めて筆を握ったのは、三歳の頃だった。父親のアトリエにこっそり忍び込んだ時、置いてあった絵の具のついた筆を、恐る恐る手に取った。後で、こっぴどく叱られたせいで、あの時の筆の持ち手の感触が、今でも頭に焼きついている。
 「英司君もいずれは、画家として活躍するのかな」幼い頃から周囲の大人達が、期待の眼差しを向けた。
 岩谷良二と言えば、その界隈で知らぬ者はいない、日本絵画の巨匠だった。彼の描いた絵は、何百万円で取引され、国宝に選ばれるのも時間の問題だと言われていた。そんな岩谷良二の一人息子として産まれた自分は、将来を羨望され、画家になるものだと誰もが疑わなかった。自分の目の前にレールを敷かれており、背後から無責任な大人たちが「歩け!歩け!」「進め!進め!」と背中を押した。「嫌だ!!」と訴えても、大人たちは聞く耳を持たず、背中を押す手を緩めない。
 
 それでも自分は、絶対に画家にはならないと、幼心に決意を固めていた。
 なぜなら…父親のことを憎んでいたからだ。
 
 画家として超一流でも、男として夫として父親としては、最低以下だった。常に機嫌が悪く、眉間には深い皺が刻まれており、近寄りがたいオーラを全身から放っている。そして、少しでも気に入らないことがあれば、突然憤慨し、あたりかまわず怒鳴り散らした。料理が不味いと言って破壊した食器は数知れず、部屋が暑いといって、扇風機を叩き壊したこともあった。運動会や授業参観に顔を出したことは一度もなく、旅行に連れて行ってもらったこともない。溜め込んだ鬱憤とイライラの矛先は、当然のように妻の芳美に向けられた。母である芳美は、線が細くいつも何かに怯えている色白の女性だった。良二の言いなりになり、暴力を振るわれても、自分が悪いと額を床に擦り付けていた。そんな母の姿を、見るのが何より辛かった。
 良二がアトリエにこもっている間、母は部屋の隅でいつも泣いていた。その姿を呆然と見つめるしかできない自分が情けなく惨めだった。だが、幼い自分には良二に立ち向かっていく力も度胸もなかった。ある日、たまたまテーブルに置かれていた画用紙に色鉛筆で絵を描いたことがあった。自分の顔よりも大きい画用紙いっぱいに、一心不乱に母の似顔絵を描いた。絵を嫌っていた自分が、なぜあの時母の似顔絵を描いたのか、今でもよくわからない。

 目を真っ赤に充血させた母に見せると、顔をぐちゃぐちゃにして満面の笑顔を浮かべた。
 「上手だね。…ありがとう」そう言って、抱きしめられた。
 肩に顔をうずめて、母は嗚咽を漏らした。その日以来、母が泣き崩れる度に、絵を描いて渡した。似顔絵だけでなく、キャラクターや空、虹を描いた。母は泣きながら、いつも褒めてくれた。
 「英司君は、絵が上手。…すごいね」その言葉が嬉しかった。
 殴られている母を助ける力はなくても、泣いている母に絵をプレゼントすることができる。そんな自分自身を誇らしく思った。相変わらず絵は嫌いだったが、母を救うことができるなら、些細なことだった。
 ある日、いつものように母のために絵を描いていると、良二が突然リビングに入って来た。これまで描いてきた絵は、母が押し入れの奥に大切にしまってくれていたため、良二は自分が絵を描いていることを知らなかった。
 怪訝な表情で、二人を見比べた良二は、手元にある画用紙を見て、眉をあげた。
 「これは…」ちらりと母の方を見てつぶやいた。
 「すみません!」慌てて立ち上がった母が頭を下げた。
 「私が描いてほしいとお願いしたんです。嫌がっているのを無理矢理に。だから、英司君には責任はありません」
 そうじゃないと訴えたかった。泣いている母の少しでも慰めになればと思って、絵を描き始めたのは自分だ。必死に自分を庇おうとしている母の姿に、胸をしめつけられた。
 黙って母の話を聞いていた良二は、画用紙を手に取り目を細めた。心臓が尋常ではない早さで脈を打ち、口から飛び出しそうだった。
 じっと目を凝らしていた良二は「…悪くない」と低い声でぽつりと言った。
 「えっ」自分の耳を疑った。厳格で人一倍他人に厳しい良二が、今自分の絵を褒めたのか。母は胸の前で両手を組んだまま、事の成り行きを見守っている。
 「待っていなさい」
 リビングを出て行った良二は、革でできた四角い鞄を持って戻って来た。鞄の中には、絵の具やパレット、大小様々な筆など絵を描く道具一式が詰まっていた。
 「これで、あれを描いてみなさい」
 良二は一本の鉛筆を差し出し、タンスの上にある骨董品の置時計を顎で示した。
 恐る恐る鉛筆を受け取り、時計と良二、交互に視線を向けた。ちらりと振り返ると、心配そうな母と目が合った。母はもう泣いていなかった。その姿に勇気づけられ、鉛筆を握る手に力がこもる。軽く息を吐いて、画用紙に鉛筆を押し付けた。
 良二はそんな一人息子の様子を、背後から腕を組みじっと見守っていた。強烈な圧迫感に負けじと鉛筆を走らせる。
 数分後、描きあがった画用紙を見せると、良二はわずかに目を見開いた。気まずい沈黙が流れた。
 「…よくやった」おもむろに口を開いた良二はそう言って、頭をポンポンと撫でた。
 心の奥が暖かくなり、自然と口元が綻んだ。初めて良二から褒められたことの喜びで、胸がいっぱいになった。しかも、それが最も忌み嫌い、嫌悪してきた絵だったことに、運命めいたものを感じた。
 「そうなんです。英司君は絵が上手で。きっとあなたの才能を受け継いだんです」
 駆け寄ってきた母が、肩に手を置いた。良二は満足そうな顔で画用紙を眺めていた。
 
 その日を境に、生活が一変した。
 
 息子に自分と同じ才能があると気づいた良二は、すぐに専属の指導者を用意し、週に五日間自宅で絵画レッスンを開かせた。絶対に絵描きにはならないと決めていたはずが、良二に認められたことで、すっかり心変わりしてしまった。何より母が喜んでくれたことが、一番の決め手となった。飲み物やお菓子を運んでくるのを口実に、レッスン中にも関わらず何度もアトリエに顔を出し、その度に「上手ね」と微笑みかけてくれた。そんな母の行動を愛おしく思った。
 「さすがは、岩谷先生の息子さんだ。これまで教えてきた生徒の中で、一番筋がいい」
 三十代前半で絵描きというより、スポーツマンのような溌剌とした印象の小尾裕介が、頷きながら言った。
 「小学校に上がったら、いよいよコンクールだ。君の絵を見たら、世間は驚くよ。さすがは、岩谷良二先生の息子さんだって」
 小尾は初対面の時から「岩谷良二先生の息子さん」と言い、一度も「英司君」と呼んではくれなかった。

 小学校に入学した後は、キャンバスに向かう時間をさらに増やした。週五日のレッスンに、休みの日も自主練に励んだ。集中すると時間を忘れてしまうため、気がつくと夜だったことも何度かあり、その度に母を心配させた。
 それでも飽きることなく、絵を描き続けた。理由は二つある。岩谷良二の息子ではなく『岩谷英司』として世間に認めさせることと、多くの人を喜ばせるためだ。コンクールに入賞すれば、大勢の人々が自分を絵を目にする。そうすれば、泣いている母を慰めたように、多く人々の心に光を灯すことができる。自分にはそれだけの才能があり、それが使命だと感じていた。だから、ゲームや漫画で盛り上がる同級生に背を向け、キャンバスに向き合うことができた。
 初めてのコンクールに出品する絵を見た小尾は「これなら問題ない」と太鼓判を押した。
 
 しかし、現実はそこまで甘くなかった。
 
 小尾があれだけ自信満々だったにも関わらず、あっけなく落選した。入賞どころか一次審査を通過することもできなかった。
 「最初だったから、しょうがないよ。まだチャンスはある」能天気な小尾が、無責任に励ましてきた。
 だが、次のコンクールもその次のコンクールも、入賞することができなかった。唯一校内の写生大会で表彰されたが、本当の望みとはかけ離れていた。
 始めのうちは「運が悪かっただけだ」と、優しかった父親も次第に眉間の皺が深くなり、冷めた眼差しを向けるだけで、一言も口を聞かなくなっていった。結果を出せなかった小尾はクビになり、すぐに次の指導者がやってきたが、落選が告げられるたびに、別の指導者に代わった。描いても描いても結果を残せないことに、表情が強張ばり、気分が沈んだ。そんな自分を母が、いつも慰めてくれた。
 「次は大丈夫よ。英司君は才能があるんだから」
 そう声をかけられる度に、嬉しい反面、惨めな思いがした。母を慰めるために、絵を描き始めたのに、今は反対に自分が慰められている。
 不甲斐ない息子への憤りは、全て母に向けられた。父が暴力を振るうたびに、母に絵を描いたが、昔のような誇らしさを感じることができなかった。
 
 一度も入賞することができず、鬱々とした日々を過ごしていたある日、絶好のチャンスが訪れた。

 三年に一度開催される『全国小学生絵画コンクール』への参加が許可されたことだ。
 前回は小学一年生だったことと、父の反対があり参加することができなかったが、今回は奇跡的に許可が下りた。その前のコンクールで最終選考まで残ったことで、父の機嫌も幾ばくか治ったらしい。全国規模の伝統あるこのコンクールで結果を残すことができれば、これまでの汚名を一気に返上することができる。
 「佳作でも十分ですが、岩谷君から金賞も狙えるはずです。ですが、油断してはいけません。精進を忘れず、全ての審査員を納得させる、完璧の絵を描くことです。いいですね」
 いったい何人目かもう覚えていないが、五十代前半のこ綺麗な女性指導者が、目を吊り上げた。これまでの指導者の中で、最も口調がきつく、こっちが少し気を抜いただけで、激しく叱責してくる。時にその指導に憤りを感じたが、これも絵で結果を残し父と世間を見返すためだと、歯を食いしばった。コンクールの半年前から、歴代の受賞作品を研究し、どんな作風のものが受賞しやすいのか、入念な対策を立てた。放課後や休日も、一分一秒が惜しいと食事とトイレ以外の時間は、キャンバスに向かった。
 半年後、絵が完成した。自分でも惚れ惚れするほどの出来栄えで、女性指導者も「頑張りましたね」とねぎらいの言葉をかけてくれた。父は、ちらりと絵を見ただけで、無言で去って行った。何か一言、声をかけてほしかったが、この絵が入賞すれば、父の態度も変わるはずだ。ましてや金賞を取った暁には、世間に岩谷英司の名が知れ渡る。もう岩谷良二の息子さんとは呼ばせない。

 一ヶ月後、ホームページ上に結果が発表された。母と共に緊張しながら、結果を確認したが、岩谷英司という名前は、どこにも見当たらなかった。
 絶望し、がっくりと肩を落とした。虚しさと悲しみに心を絞めつけられ、息苦しさを感じた。青春の貴重な時間を犠牲にし、必死に描き続けたあの日々はなんだったのか。
 「英司君…」母のぬくもりが、肩におかれた手のひらから伝わってくる。目頭が熱くなり、嗚咽を漏らしながら、その場に突っ伏した。悔し涙が頬を伝う。
 数分後、幾分か落ち着きを取り戻し、いったいどんな作品が金賞に選ばれたのか、母が入れてくれたルイボスティーを飲みながら、ホームページを見ていると、そこにあった氏名を確認し、愕然とした。
 『金賞 渡井蓮(小学四年生)』
 自分と同学年が金賞を受賞していることが信じられなかった。だが、作品を見て納得がいった。画質が粗いため、多少見劣りはするが、間違いなく金賞を受賞するにふさわしい作品だった。技術の拙さと幼稚さは残るものの、斬新な構図と色使い、繊細かつ大胆なタッチは、小学四年生が描いたものとは思えない桁外れの完成度だった。
 
 完敗だった…。
 
 後日、近所の美術館で金賞を受賞した渡井蓮の絵が展覧されると聞いて、一人で行ってみることにした。自転車を飛ばし到着した美術館には、すでに大勢の客が詰めかけていた。客の間をすり抜け、美術館に入ると、一番目立つ場所にその絵は展示されていた。
 「ほら、早く!レンは真ん中で、お父さんはこっち」
 ハッとして顔を向けると、花柄のワンピースを着た中年女性が係員にカメラを渡し、絵の前に並んだ。隣には色白でひょろっとした男の子が立ち、反対側に皺の寄った背広を着た男性がいた。
 「お父さん、笑って笑って。レンの晴れ舞台なんだから」
 「レン」と呼ばれた男の子は、照れくさそうに頬をかいた。彼が『渡井蓮』で間違いない。寝ぐせが跳ねた頭に、頼りなくへらへらした雰囲気からは、とてもあれだけのクオリティの絵を描いた人物とは思えなかった。

 こんなやつに、負けたのか…。
 
 悔しさで奥歯がギリギリと鳴った。
 あの場所に立つのは、本当は自分だったはずなのに…。
 あんなケバケバしいワンピースではなく、純白のシルクのワンピースに包まれた母。古びた背広ではなく、一流の職人が仕立てた袴姿の父。この日のために用意したフォーマルスーツを着た自分が、胸を張り誇らしげな表情で二人の間に立つ。華やかな三人の姿を見た客からは感嘆の声が漏れ、祝福の拍手が鳴りやまない。
 そんな未来が待っていたはずだったのに、どうして自分はこんな場所に立っているのか…。
 渡井家の幸せそうな様子に耐えられなくなり、逃げるように美術館を後にした。

 『全国小学生絵画コンクール』の後遺症が尾を引いていたせいか、その後も結果を残すことができなかった。
 小学六年生になった春。そろそろ来年の進学先を決めなければいけない時期がやってきた。
 「岩谷先生は、名門の『日本芸術院』を卒業されています。歴史ある学校で、多くの芸術家を輩出しています。あなたも今後を絵を学び続けるつもりなら、そこに通うことをオススメしますよ」
 この春にやってきたばかりの指導者が、押しつけがましく言った。しかし、その話に一筋の光を感じた。このまま指導を受けていても、現状を打破できる気配すら感じない。だが、環境を変えれば、何かきっかけを掴めるかもしれない。今の学校の連中は、絵に全く興味がない。そのせいで、周りから完全に浮いた存在に見られている。結果を出ないのは、こういった環境の影響が大きいのではないか。そういった意味で『日本芸術院』は、申し分ない環境だ。集まってくる生徒達は、自分と同じように絵に人生をかけている者たちばかりのはずだ。その中で自分の技術を磨いていけば、自ずと結果もついてくる。
 ようやく見つけた解決の糸口に、胸が高鳴った。
 だが、岩谷良二の反応は予想外のものだった。
 「ダメだ。お前があそこに通うことは認めん。才能のないお前が行けば、私の評判に傷がつく。大人しく近所の県立に通え」
 「これ以上恥をさらすな」軽蔑と侮辱を浮かべた眼差しに、胸を抉られた。
 哨然として、言い返す言葉が出てこない。
 自分はこの男から『恥さらし』と思われていたのか。
 結果が全ての世界だ。人一倍努力したところで、結果を残せなければ、世間から認められることはない。そんなことは分かっている。だが、一番近い場所で、自分が努力している姿を見てきたはずだ。指導者が変わっても、文句も言わずレッスンを受け続け、周りからの白い目にもひたすら耐えて筆を握ってきた。家族として親として、そのことは評価してくれているはずだと思っていた。

 そんな自分の考えが甘かった…。

 結局、希望は叶わず県立中学への進学が決まった。
 沈んだ気持ちのまま、中学一年の春を迎えた。小学校と地区が同じだからか、クラスメイトは見たことのある顔ぶればかりだった。やり切れない思いを抱えたまま教室に入り、自分の席を探していると一人の生徒が目に入った。その瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
 新品のダブダブの制服を着て、居心地悪そうに視線を泳がせている男子生徒がいた。数年前に美術館で見かけた時よりも、少し大人びて見えたが、間違いなくあの『渡井蓮』だった。
 担任が今後の予定と諸々の連絡事項を話している間、左斜め前の席に座る渡井蓮の背中をじっと見つめていた。
 ホームルームが終わり下校の時間になった途端、渡井蓮はそそくさと教室を出て行こうとした。その背中を慌てて追いかけて、声をかけた。
 「ねえ、渡井蓮君?でしょ」警戒心を解くため、笑顔を作った。
 渡井蓮が怪訝な表情で振り返る。
 「やっぱりそうだ。君の絵を見たことがあるんだ。すごかったよ。どうしてあんな上手に描けるの?」
 いきなり距離を詰めすぎてしまったかと、不安に思ったが意外にも渡井蓮が口を開いた。
 「えっ、あの…教室に通ってるから…かな」周りの喧騒に吸い込まれそうな、か細い声で言った。
 「どこの教室?」
 「…湯澤徹先生の教室だけど」
 「名前聞いたある。有名な画家の人でしょ」渡井蓮が『全国小学生絵画コンクール』で大賞を受賞した後、彼の絵の先生として湯澤徹が雑誌のインタビューに応えているのを読んだことがある。父に湯澤徹のことをそれとなく尋ねると「そんな奴は知らん」と一蹴された。
 「君も絵を…」渡井蓮が目を瞬かせた。
 「うん。習ってるよ」共通点があることをアピールし、距離を縮めようと必死だった。
 「でも全然、上手に描けなくて。『全国小学生絵画コンクール』にも応募したけど、ダメだった」
 わざと卑下する素振りを見せて、渡井蓮の警戒心を解くつもりだった。
 「嬉しいなぁ。金賞の渡井君と同じクラスだなんて。部活はもちろん美術部だよね」
 「うん…。そのつもりだけど」渡井蓮が戸惑いながら答えた。
 
 その後簡単に自己紹介だけして別れた。

 一人残された教室で呆然と立ち尽くしたまま、身動き一つできなかった。足元から湧き上がってくる興奮で、叫び出したくなるのを何とか堪えた。あの渡井蓮とクラスメイトになったことが、未だに信じられなかった。憂鬱でつまらない三年間を過ごものだとばかり思っていたが、とんでもないチャンスが目の前に転がり込んできた。
 このまま渡井蓮と友達になることができれば、彼が絵を描いている姿を間近で見ることができる。絵の具の種類、パレットの大きさ、描いている時の表情、繊細で大胆なタッチを描き出す筆さばき。彼の近くにいれば、その技術を知ることができ、そしてそれを自分の絵に活用することができる。渡井蓮はこれ以上ない指導者だった。これから彼と行動を共にし、一挙手一投足から目を離さない。
 先ほどのやり取りで、少し彼との距離を詰めることができた。まだ緊張と警戒感が残っていたが、明日になればさらに打ち解け、懐に入り込めるはずだ。美術館で見た時の第一印象通り、少し抜けたところがある。だから彼が自分の本心に、気がつくことはないだろう。

 神様は自分を見捨ててはいなかった。

 学校から帰宅すると、父と母に美術部へ入部するつもりだと話した。母は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、すぐに微笑んでくれた。
 仏頂面の父は「好きにしろ。その代わり、今までのレッスンはもう終わりだ。絵を遊びだと考える者に、一流の学びを得る資格はない」
 そう言い捨てて部屋を出て行った。
 県立中学の部活など単なる暇つぶしのお遊びで、そんなものに関わるつもりは毛頭なかったが、渡井蓮が入部するというなら話は別だ。
 しかし驚いたのは、湯澤徹の教室に週一回しか通っていなかったことだ。あれだけの絵を描けるのだから、てっきりほぼ毎日、徹底的な指導を受けているものだと思っていたが、まさか独学で、あれだけの絵を書いたのか。
 そんな非現実的なことはありえないと思っていたが、渡井蓮を深く知るうちに、到底受け入れがたい真実を突き付けられることになる。
 渡井蓮曰く、キャンバスの前に立つと、絵が頭の中に浮かび、それを上からただなぞっているだけだそうだ。『全国小学生絵画コンクール』金賞の絵も、そんな感じで描いたから、受賞したという実感はない。
 悔しさで全身が震えた。こっちは毎日遊ぶ時間を犠牲にして筆を握り、血の滲む努力を重ねてきた。『全国小学生絵画コンクール』の前には、これまでの受賞作を研究し、何枚も絵を描き直し、寝る間も惜しんでキャンバスに向き合ってきたんだ。それなのに、ヘラヘラして甘い考えのちょっと絵を習っているだけの素人同然の同級生に負けた。
 確かに渡井蓮の絵は、素晴らしかった。美術部に入部し、共に長い時間を過ごし、改めて本物だと確信した。しかしそれは彼が努力で手にしたものではなく、才能というあまりに不可解で実体のないものだった。そんなものを肯定することはできない。だが、結果が出ている以上、安易に否定することもできない。鬱々とした気分を晴らすことはできなかったが、悔しさをバネに今まで以上に筆を握った。
 
 渡井蓮の親友として、筆づかい、配色、構図など、彼の技術と感性の全てを最も近い場所で見ることができた。そこで得た技術と感性を自分の絵に活かす。他人の神輿にこっそり乗りこむような卑しい自分を情けなく思ったが、これも絵のためだと強引に自分を納得させた。

 この覚悟が報われ始めたのは、中学二年生の夏を過ぎた頃だった。
 
 これまでは入賞どころか予選を通過することもできなかったはずが、少しずつ結果が出始め、審査員特別賞や良いときは銀賞を受賞するようになってきた。自分でも描き上がった絵の完成度が、これまでよりも明らかに向上していることを肌で感じた。渡井蓮に勝つことは、まだ無理だったが確かな手ごたえを得て、自信を取り戻し始めていた。
 周りの自分を見る目も変わった。これまでは渡井蓮の腰巾着だと揶揄されてきたが、結果を残し始めた途端、パタリと聞かなくなった。頑なだった父の態度も少しずつほぐれていき、一言二言会話を交わすこともあった。反対に母は浮かない顔をしていた。
 中学三年生になり、大きなチャンスが舞い込んできた。名門である『東京都立芸術高等学校』への推薦入試だ。歴史のある『東京都立芸術高等学校』と言えば、これまでの多くの芸術家を輩出している日本随一の芸術専門学校である。しかも五枠しかない推薦枠を勝ち取った者は、将来が約束されていると言っても過言ではない。
 これまでの血の滲むような努力がようやく認められた瞬間だった。
 当然のことながら渡井蓮にも推薦の話は、持ち掛けられていた。自分と渡井蓮、どちらか一人でも合格してくれれば、学校側としては御の字なんだろうが、一歩も引く気はなかった。これまでの実績は渡井蓮には劣るが、今の自分は右肩上がりだ。入試までに少しでも多くの実績を残しておけば、十分合格の可能性はある。それからは狂ったように、絵を書き続けた。美術部の活動が終わった後も自室でキャンバスと向き合った。
 渡井蓮は相変わらず、ヘラヘラとしていて緊張感もプレッシャーも何も感じていない様子だった。
 「推薦入試?いまいち実感が湧かないな」
 自分の合格は確実であると余裕ぶっているのか、本当に何も考えていないのか。腑抜けた態度に腸が煮えくる想いだったが、自分の成長のために、まだ彼は必要な存在だった。
 「俺も推薦とか興味ないわ」親友のふりも違和感がなく、すっかり板についてしまった。
 文化祭も終わり、美術部の活動もひと段落した頃、推薦入試の結果が発表された。結果は二人とも合格。担任からその話を聞かされた時は、まだ現実味がなく「そうですか」と空返事をするだけだったが、徐々に喜びが膨れ上がり、帰宅すると自室の床に突っ伏して泣きじゃくった。早速に両親に報告すると、破顔した父が、満足そうに何度も首を縦に振った。
 「よくやった!さすがはこの岩谷良二の息子だ。お前はいずれ大成すると思っていた。父親として鼻が高いぞ!」
 どの口が言っているんだと、軽蔑したが今だけは素直に受け止めることにした。父とは正反対に、母は思いつめたような表情を浮かべて、視線を落とした。ここ最近あまり元気がない。父との間に何かあったのかと心配したが「そんなことはないわ」と、軽く受け流されてしまった。四十代を間近に控え、顔には皺、髪には白いものが増え始めた。それでも長年培われた美しさは、目減りすることはなかった。
 
 中学卒業を間近に控えた冬のある日、ついにその時が訪れた。
 
 『岩谷英司 大賞』 『渡井蓮 特別賞』
 
 夢にまで見た瞬間だった。
 「おめでとう」
 言葉とは裏腹に渡井蓮は少し悔しそうだった。
 
 雲一つない透き通るような青空の元『東京都立芸術高等学校』の入学式が粛々と執り行われた。
 胸の奥に自信を秘め、堂々とした態度で、新入生代表の挨拶を読み上げた。会場には、両親の姿もあった。

 『美術科』でも渡井蓮は注目の的だった。『全国小学生絵画コンクール』大賞の影響力は絶大だ。だが、大人の一歩手前の高校生が相手では、これまでとは周囲の雰囲気が違っていた。
 渡井蓮が上級生からいじめを受けていることを知ったのは、夏の影が伸び始めた六月の終わり頃だった。
 ここ最近様子がおかしいと思い本人を問いただすと、悪質な嫌がらせを受けていると打ち上けた。最初は、筆やパレットが無くなったり、絵の具の種類が減っていたり、子供のいたずらの延長線だったが、次第にエスカレートし、すれ違いざまに殴られたり、足を引っかけられることもあった。
 少しやり過ぎだと思ったが、本人はそこまで思い悩んでいない様子だったので、大きな問題にしなかった。飄々とした普段と変わらない様子に安心する反面、少し残念だったのは事実だ。これがきっかけで、不登校にでもなってくれたら、ライバルはいなくなり、コンクールでも自分の絵が入賞する確率が格段に上がる。高校入学以降、お互いの成績は五分五分で、頭一つ抜け出すことがなかなかできずにいた。相手が自滅してくれるなら、これほど楽な手はない。
 
 校舎の裏側で、『油彩クラブ』の上級生たちがたむろしている場面に遭遇したのは、良心と悪意の狭間で揺れているころだった。
 
 「なあ、もうやめようぜ」眼鏡をかけた男子生徒が物憂げな顔でため息交じりに言った。「あいつ全然気にしてねえもん。なんかもうバカらしくなってきた」
 「渡井、この間も表彰されてたぞ。俺は予選通過すらできなかったのに…」
 どうやら、渡井蓮をいじめている連中が、彼の様子が変わらないことに虚しさを感じ始めているようだった。小学生の嫌がらせ程度で、天然で鈍感な渡井蓮が影響を受けるはずがない。やり方が甘いのだ。自分だったらもっとうまくやれる。長年親友のふりをしてきたおかげで、渡井蓮の急所は熟知していた。
 「あの…」物陰から声をかけると、上級生達が一斉に振り返った。

 変わり果てたキャンバスを手に取り、うずくまった背中が小刻みに震えている。切り刻まれた布切れが、床を滑るように舞っていた。ちらりと視線を向けると、上級生達が表情を固くしていた。そんな顔をしていたら、自分が犯人だと白状しているようなものだ。
 「それはいくら何でもやりすぎじゃ…」
 最後まで怖気づいていたが「逆らう権利はない」と半ば脅しをかけると、恐る恐るナイフを手に取った。謝礼として金を渡していたし、別の高校の女子生徒も何人か紹介している。彼らは自分に逆らうことはできない。
 いじめのきっかけは、渡井蓮の気取った態度だった。話かけてもろくに返事もしない、絵の描き方を教えてくれと頼むと、あらかさまに嫌な顔をされる。ちょっと絵が上手いだけの後輩が、調子に乗っているのが我慢ならなかった。
 年長者の嫉妬ほど、醜いものはない。聞いているうちに吐き気を覚えたが、胸の奥にひた隠し、同情したふりをすると、簡単に自分のことを信頼した。
 
 キャンバスを切り刻むのは、最終手段だった。絵描きとして、それがどれだけ無慈悲で残虐な行為か理解していた。「自分のキャンバスが…」と想像しただけで、背筋が凍りついた。幼い頃から絵が人生の全てで、己自身と言っても過言ではない渡井蓮の心情を思うと、胸がわずかに痛んだが、長年蓄積された悔恨と憤りがそれらを凌駕した。

 この日を境に、渡井蓮は絵を描かなくなった。

 長年自分の道を塞いでいた障害が取り除かれたことで、ダムの水が一気に放流されるように、怒涛のごとく物事が好転していった。
 全国規模の大きな大会で、特別賞を受賞し文化祭では最優秀作品に選ばれ、全校生徒が憧れるマドンナ『滝野優愛』と付き合うこともできた。『油彩クラブ』のクラブ長に選出され、生徒はもちろん教師からも信頼と畏敬の眼差しを向けられた。芸術分野で多大な功績を残している名門大学から声をかけられ、高校三年生に進級した同時に、来年度の推薦入学が決まった。
 大学入学後もこの勢いは止まらなかった。
 若手芸術家の登竜門というべき『全日本学生芸術展』で審査員推薦賞に選ばれ、将来有望の画家として芸術界にその名を刻んだ。その頃には『岩谷良二先生の息子』と呼ばれることが、完全になくなった。反対に父の調子は、どんどん悪くなるばかりだった。納得のいく作品を発表することができず、「岩谷良二は堕ちた」と揶揄されているのを耳にしたこともあった。酒の量も増え、赤ら顔で筆を握っている場面を何度も目撃した。
 
 物事が下降し始めた時こそ、その人物の本質が見える。
 
 自堕落な生活を送る父を見て、本当は弱い人なんだと軽蔑すると同時に寂しさを覚えた。一方の母は、家にいる間も笑顔が増え、若々しさを取り戻したように見えた。化粧も濃くなり、派手な洋服で外出することもあった。
 そんな母から話があると呼ばれたのは、大学卒業を控え、初開催の個展の準備に奔放していた晩秋の肌寒い日だった。
 
 「良二さんと離婚することになりました」
 
 まるで晩御飯のメニューを告げるように、淡々と抑揚なく言った。予想外の出来事に、すぐには理解することができなかった。
 「来週中にこの家を出て行きます」
 「そんな…」と絶句すると、母は静かに微笑んだ。
 「英司君も一人暮らしが決まって、これからは良二さん独り。心配しなくても、本人も納得されていますから、大丈夫ですよ」
 「どうして…」と問いかけると、笑顔が消えた。
 「もう疲れました。あの人の世話をするのも、ストレスのはけ口になるのも…」
 母の悲惨な状況を、誰よりも間近で見てきたのは自分だ。母の気持ちも理解できる。だが、あまりに突然だったことと、父の現状を思い「なぜ今」と疑問が浮かんだ。
 「別に急なことじゃないわ。ずっと考えてきたことだから。いずれはこの家を出て行きたいって。良二さんが大変なのは承知しています。でも私がそばにいたところで、どうにかなることでもないでしょ。絵のことは良二さんにしかわからないし、私が口出しできることじゃないわ」
 正論だったが、あまりに冷たい物言いに開いた口がふさがらなかった。母の裏の顔を見た気がして、胸がぎゅっと締めつけられた。
 
 母の決意は固く、自分が説得する余地はないと諦めるしかなかった。
 タイミングが良くないとは思ったが、母が家を出た後では、直接伝えられないかもしれない。暗い気持ちを振り払い、笑顔を作り胸を張った。
 「今度初めて個展を開くから見に来て」とパンフレットを差し出すと、母の表情がくもった。
 「ごめんなさい。行けないわ」
 「どうして?」声が上擦った。
 「今の英司君の絵…好きじゃないの」
 目の前が真っ白になった。
 「すごく上手よ!すごく評価されてるのもわかってるわ。でも、その…少し打算的というか、心が無いって言うのかしら。素敵なんだけど、何も伝わってこないのよ。昔の絵は違ったわ。泣いてる私のために描いてくれた絵からは、英司君の優しさと深い愛情が伝わってきた。でも今の絵からは、何も…」
 気まずそうに口ごもる母の態度が、決して冗談ではないことを物語っていた。
 
 母が家を出たのは、それから一週間後のことだった。

 大学卒業後は、大学の先輩が経営している画廊で、スタッフとして働かせてもらえることになっていた。今後はそこで働きながら、絵を描き定期的に個展を開いて、いずれは独立するつもりだ。大学在学中にも関わらず前回個展を開催できたのも、この先輩の力が大きかった。会場の準備、日程の調整、集客、予算の確保に至るまで、全てを担ってくれた。自分は絵を描きながら、その様子を遠巻きに見ているだけだったが、とてもよい勉強をさせてもらった。
 初めての個展は会場も狭く、規模も小さかったが、友人や関係者が大勢詰めかけ大盛況だった。
 明日からは、画廊の近くに借りたアパートで、一人暮らしを始める。
 実家で過ごす最後の日。荷物を業者に渡し、がらんとした部屋の中で一息ついていると、扉を乱暴に開けて、突然父が入って来た。どうやら昼間から飲んでいたらしく、息が酒臭かった。
 「なんだ。お前も出て行くのか?」
 憎々しい眼差しで、空っぽになった部屋を見渡した。
 「いい身分だな。ここまで養ってきてやったのは、誰だと思ってる。あの女もそうだ。俺の金で散々贅沢させてやったっていうのに、あんな紙切れ一枚残して出て行きやがって。だから、貧乏人の娘は嫌だったんだ。伯父の顔を立てて見合いしたのが、そもそもの間違いだ。とんだハズレくじを引かされたもんだ」
 ドカッと床に座り込むと、母や親戚に対して口汚く悪態をつき始めた。
 「母さんのことを悪く言うな」言葉に憤りが滲んだ。
 「お前もお前だ。この薄情息子が!!誰のおかげで絵が描けると思ってる。私のおかげで、お前の絵はあれだけ評価されたんだ!『岩谷良二の息子』という肩書がなければ、今のお前はない!それなのに感謝もせず、自分の手柄みたいな顔をしおって。父親が私じゃなかったら、お前はとっくに―」
 気がつくと父の胸倉を掴んでいた。「ひっ」と声を震わせ、今にも泣きだしそうに目元を歪めた。持ち上げた父の身体は軽く、よく見ると顔中シミと皺だらけで、この短期間で急速に進んだ老いを感じずにはいられなかった。虚しさと軽蔑が頭の中で渦を巻き、胸倉を掴む手から力が抜けていった。
 手を離すと父は背中を丸め、その場にへたりこんだ。
 こんな父の姿は見たくなかった…。
 目を背け、部屋を出て行こうとすると、「まっ待ってくれ!」情けない声を出して、すがりついてきた。
 「お前も私を捨てるのか!!」と涙を浮かべて地べたに這いつくばる父を一瞥し、無言で部屋を出て行った。

 それからの一年間は、ものすごい速さで過ぎて行った。
 画廊のスタッフとして働きながら、自分の個展の準備を進め、夜中に帰宅した後は、アトリエにこもって絵を描いた。高校から付き合っていた滝野優愛と婚約し、新居となる都内の高級マンションに引っ越した。さらに海外進出を狙って、大学の先輩の人脈を頼りに多くのパーティーや画廊に顔を出した。三六五日、二十四時間死にもの狂いで走り続けた。そのかいあって、海外を中心に活動しているディレクターから声がかかり、二十三歳という若さで海外進出の足掛かりをつかむことができた。
 ちょうどそのタイミングで、高校三年生の頃から描き始めていた、これまでの集大成と位置付けた大作の完成があと一歩のところまで来ていた。構想五年。長年培ってきた経験と技術の結晶が、もう間もなく完成する。だが完成を間近に控え、筆を握る手が止まってしまった。
 
 何かが足りない…。これでは今までの絵と変わりがない。

 大切なピースが欠けている。でもそれが何か分からなかった。だが唐突に答えが降ってきた。正確には望まぬ形で、眼前に突きつけられた。
 
 答えをくれたのは母だった…。
 
 『素敵なんだけど、何も伝わってこないのよ。昔の絵は違ったわ。泣いてる私のために描いてくれた絵からは、英司君の優しさと深い愛情が伝わってきた。でも今の絵からは、何も…』
 
 いつの間にか賞を獲得することに拘り、絵を描き始めた時の純粋な気持ちを忘れていた。泣いている母を喜ばせるために、絵を描いていた時は、他人の評価や勝ち負けに捉われてはいなかった。母の笑顔が見たかった。母に抱きしめてほしかった。だが、気がつくと「どんな絵なら勝てるのか」「審査員が喜ぶ構図は何か」こんなことばかりを考え、ライバルを蹴落とし自分が上に立つことに頭の中が支配されていた。
 母はそんな自分の絵を嫌った。美しく崇高な芸術作品ではなく、子供の落書きを愛した。
 そして、そんな落書きを描いていた時の、自分の原点が、この絵には足りなかった。

 『最後の個展』と銘打った、海外進出への勢いをつけるとても大切な個展の前に、そんな大事なことに気がつけたのは、運がよかった。この個展には間に合わなかったが海外へは『あの絵』を持っていける目途がたった。

 個展の打ち合わせと準備、創作活動が佳境を迎える中、すっかり疎遠になっていた母に手紙を送った。

 『お元気ですか?僕はおかげ様で充実日々を過ごしています。突然ですが来週、個展を開くことになりました。今回で三回目で、この個展を足掛かりに年明けから本格的に海外に挑戦します。もしかしたら、日本でやる個展は、これが最後になるかもしれません。
 手紙と一緒にチケットを同封しておくので、母さんにどうしても来てほしい。
 家を出る直前に母さんから言われた言葉を、一日たりとも忘れたことはありません。
 『あなたの絵には魅力がない』『昔の絵の方が好きだった』
 ショックでした。僕が絵を始めたきっかけは母さんでした。絵を褒められるのが嬉しかった。だから母さんに否定されるのは、これまで打ち込んできた歳月を否定されるのと同じです。どうしてあの場面であんなことを言うのか。母さんを恨んだことも事実です。
 でも、今は違う。
 あの時正直な気持ちを聞かせてもらっていなかったら、僕は未だに間違いを犯し続けていたかもしれません。
 僕にとって絵は、道具でしかなかった。あの男の呪縛から逃れ、自分のプライドを満たすための単なる手段としか考えていなかった。でも本当は違った。
 傷ついた母さんを笑顔にできたように、僕の絵を見た人の心を満たす。それが本当の目的であり願いだった。
 そのことに気づかせてくれた母さんには、感謝しています。
 今回の個展に飾られる絵は、そんな僕の原点を描いた作品ばかりです。そしてそれは、母さんのための絵だと言ってもいい。
 だから、どうしても来てほしい。今の僕の絵を見てほしい。
 息子の最後の願いを聞き入れてほしい。
 母さんがいつ来てもいいように、個展開催中、僕はずっと会場にいます。
 
 来展をお待ちしています。

 岩谷英司」
 
 自分の想いは、これで伝わるはずだ。母は必ず来てくれる。そう信じて疑わなかった。
 
 個展開催の前日に、渡井蓮と再会したのは本当に偶然だった。
 やつれた頬に落ちくぼんだ眼窩、濁った瞳。身体からニスと絵の具の匂いがしなかったから、あれからずっと絵を描いていないことはすぐに分かった。罪悪感で胸の隅が痛んだ。
 心配するスタッフをよそに、会場を案内してやると渡井蓮の瞳に光が灯った。まだ彼の中に、絵に対する想いが残っていることに、少しほっとした。
 後日自宅に招待したのは、話がしたかったのと、あの絵を見せたかったからだ。数日前に完成したばかりだが、あの絵を見れば渡井蓮の心に、もう一度絵を描いたいという想いが蘇るかもしれない。それはせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
 
 個展は連日大盛況だった。時間帯によっては、入場制限をかけなければいけないほど、大勢の人がつめかけた。招待客や関係者の相手をしながら、入口の様子が気になって仕方がなかった。いつ母が現れるか分からない。その緊張感と興奮でそわそわとして落ち着かない。「さすがに、今回は緊張されていますね」とスタッフに揶揄されるほど、浮き足だっていたらしい。
 盛り上がる会場と飾られた絵を見れば、母は今度こそ喜んでくれるはずだ。
 
 だが、結局母が、個展を訪れることはなかった…。

 どうして来てくれなかったのか。失望が憎悪に変わるのに、そんなに時間はかからなかった。
 自分がどんな想いで絵を描いたのか、なぜ招待状を送ったのか、手紙を読めばわかるはずだ。それなのに、母は来なかった。断りの連絡も手紙もくれなかった。
 結局自分は捨てられたのだ。あの男と同じように…。
 母にとって、岩谷良二も岩谷英司も変わらない。
 自分はいったい何を勘違いしていたのだろう。母なら分かってくれると、幼い希望にすがっていたにすぎない。単なる独りよがりだった。
 
 怒りと恨みが頭の中で、グルグルと渦を巻いている。そんな最悪のタイミングで、渡井蓮から連絡があった。
 『八時過ぎには着くと思う』
 そういえば、今夜自宅マンションに招いていたのだった。母のことに気をとられ、すっかり忘れていた。今回は断ろうかと迷ったが、荒んだ生活を送っている渡井蓮を見れば、少しは気が晴れるかもしれない。
 
 高級マンションには場違いな、みすぼらしい姿の渡井蓮が姿を現したのは、八時半を過ぎたころだった。自宅のサーバーから注いだビールで乾杯すると、昔話に花を咲かせた。彼は自分がどんな思いでそばにいたのか、一切疑っていなかった。手を叩いて大声で笑う渡井蓮の姿が滑稽で見ていて腹が立った。
 
 最後まで迷ったが、結局『あの絵』を最初に見せたのは、酔った勢いと母に見せることが叶わないと知って、投げやりになっていたからだ。
 案の定、渡井蓮の目の色が変わった。何を勘違いしたのか「一緒に描こう」と言い出した時は、心底驚いたが、同時に憤りを感じた。原因はなんであれ、筆を置いたのは、己が選択したことだ。それを棚に上げ、こんなことを軽々しく口にしてしまう彼を軽蔑した。

 軽々しく頭を下げる渡井蓮の身勝手な言動に、それまで溜めていた鬱憤が爆発した。

 こんなはずではなかった。
 
 数年ぶりの再会を喜び、昔を懐かしみ、滝野優愛との婚約を彼に祝福してほしかった。いじめの真相を暴露するつもりもなかった。
 真相を知り茫然と立ち尽くす渡井蓮の顔を直視できなかった。今すぐにでも彼に謝りたかったが、もう遅い。胸の中に生じたわだかまりがどんどん大きくなり、背中を冷や汗が伝う。
 憤怒に顔を歪めた渡井蓮が突進してきた時、とっさに足が動かなかったのは、少なからず罪の意識を感じていたからかもしれない。
 振り上げられた灰皿がシャンデリアの光を浴びて、虹色に輝いていた。その後何があったのか、記憶が曖昧であまり覚えていない。
 
 薄れていく意識の中、ぼんやりと浮かび上がってきたのは、うずくまる母の姿だった。

 どうしたの、母さん。また、泣いてるの?またあの男に殴られたの?でも、大丈夫だよ。僕は、あの頃よりずっと上手な絵を描けるようになったんだ。たくさんの人が認めてくれて、いっぱい表彰もされた。今度は外国の人にも見てもらうんだ。きっとみんな気に入ってくれるはずだよ。だって母さんを喜ばせるために描いたんだもん、悪く言う人がいるはずないよ。ほら、見て!すごいだろ。これからはもっとすごい絵を、もっとたくさん描いてあげる。だから…母さん。

 もう…泣かないで。

(終わり)

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