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小説「天上の絵画」第二部

第二部

1.

 警察車両の助手席から高層マンションの頂きを見上げた権藤は、眩しそうに目を細めた。小さく切り取られた青空から陽光が燦燦と降り注ぎ、まもなく新しい年を迎えるとは思えないほど、暖かい日が続いていた。

 「権藤さん!」
 
 声のした方に視線を落とすと、マンションのエントランスにいた部下の長谷部が駆け寄ってくるのが見えた。
 
 「お疲れ様です。早かったですね」
 「さっさと解決して、いい新年を迎えたい」シートベルトを外しながら、権藤がぶっきらぼうに言った。
 「任せてください」長谷部が拳を握った。
 「…期待薄だな」
 助手席のドアを開け、外に出た権藤は大きく伸びをして、あくびを噛み殺した。
 
 「被害者は『岩谷英司』さん二十三歳。死因は顔面を複数回殴られたことによる脳挫傷。死亡推定時刻は昨夜の二十二時から深夜二時の間。凶器はガラス製の灰皿と思われ、鑑識が指紋を採取しましたが、被害者以外の指紋は見つかっていません。ですが、部屋の数カ所に拭き取られたような跡があり、犯人が証拠隠滅を図ったようです。現場検証の結果、被害者の財布や時計が無くなっていることが分かり、物取りの線で現在、周囲の住民への聞き込みを行っています。第一発見者は、被害者が務める画廊のスタッフの志藤雄介さんー」
 「ガロウ?」
 上層階行きのエレベーターの前で足を止めた権藤が、首を傾げた。
 「絵画などの美術品を展示し、客に見せる部屋のことです」長谷部が上行きのボタンを押した。「美術館ほどの規模をありませんが、有名画家の作品も展示されたことがある、そこそこ人気の画廊みたいです。被害者はそこで働きながら、自身の個展も開催していたみたいです」
 「つまり、被害者は絵描きか…」
 「その界隈ではけっこうな有名人だったみたいですよ。賞を受賞した絵もたくさんあって、次世代のエースとして期待されていたみたいです」
 「絵描きっていうのは、そんな儲かるものかね」権藤がしみじみと言った。

 事件現場に着いた二人は、すぐに鑑識から報告を受けたが、特に目新しいことはなかった。
 「物取りにしては綺麗だな」権藤が顎をさすった。「財布と時計以外に無くなったものはなかったんだろう?」
 「鑑識の報告ではそうでしたね。ただ、細かいところはまでは分かりませんから、他にも取られたものがあるかもしれません」
 「第一発見者は?」
 「下のラウンジで待ってもらっています。ただ、遺体発見のショックが大きくて、まだ話ができる状態ではありません」
 「画廊のスタッフとか関係者は?」
 「被害者の大学の先輩で、画廊の責任者だという人物と連絡がとれました。今、こっちに向かっているはずです」
 腕を組んだ権藤が、低い声で唸った。
 「何か気になりますか?」捜査用のタブレットを閉じると、顎をわずかに引いた。
 「物取りが被害者を殺害後、慌てて逃げ出したとしても、部屋の中が綺麗すぎる。それに―」権藤が凶器である灰皿に視線を向けた。「こんなものじゃなくても、もっと簡単に殺害できるものがこの部屋にはたくさんある」
 被害者は料理が趣味だったのか、整理されたキッチンの中には、数種類のナイフがしまわれていた。
 「身体の上に乗って、何度も殴りつけたのかもしれません」
 「そうだとしても、ナイフで刺した方が確実だ」権藤が首を横に振った。
 カウンターに近づいた権藤は、卓上に置かれているレバーのついた白い樽のような物体をしげしげと見つめた。
 「それは家庭用のビールサーバーです」長谷部がタブレットをタップした。「えーと、月額制の生ビールサービスで、毎月ビール樽が届くみたいですね。プランがいくつもありますが、独身男性には、二リットルのビール樽が月に二回届くのが人気で、俗に言うサブスクです」
 「…横文字は分からん」権藤が肩をすくめた。
 棚からグラスを取るとレバーを引いた。すると、ブシュッブシュッと気の抜ける音がした後、白い泡が出てきた。
 「中の樽が空みたいですね」隣に立った長谷部が、サーバーの蓋を開けて中を覗き込んだ。
 「二リットルが空か…」含みのある言い方に、長谷部がちらりと顔を向けた。
 「ちょうど飲み終わったんじゃないですか」
 「開けたばかりでか?」
 権藤はゴミ箱の中に入っていた茶色のキャップを取りあげて、長谷部に差し出した。キャップにはビール会社の名称が小さくプリントされており、サーバーから空になったビール樽を外し、キャップをあてるとピタリと一致した。ゴミ箱の中には、他に何も入っていなかった。マンションのゴミ回収は戸建てやアパートと違い、敷地内にあるゴミ回収場に二十四時間いつでも捨てることができる。
 「これがまだゴミ箱に残っているということは、開封したばかりの可能性がある。司法解剖の結果が出てからじゃないとはっきりとしたことは言えないが、一人で二リットルのビールを一晩で飲み干すとは考えにくい。おそらく被害者は、来客のためにビール樽を交換したんだろう。そして…客は一人だ」
 「どうしてですか?」
 「これだ―」権藤が棚に置かれたグラスを指差した。「このグラスだけ、わずかに水滴がついている。他のグラスは丁寧に拭いてあるのに、変だと思わないか。被害者のグラスはテーブルに置かれたままだから、犯人が自分のいた痕跡を消すために、洗って棚に戻したんだろう」
 長谷部がほんの少し目を見開いた。「やはり顔見知りの犯行ってことですか?」
 「ほぼ間違いないだろうな。しかも、酒を飲み交わすくらいの親しい間柄だ」
 「被害者の人間関係を洗ってみます」興奮気味の長谷部がタブレットを操作した。
 「このマンションの警備員は?」
 「今、別の班が聞き込みを行っています」
 「俺達も行こう。防犯カメラの映像も見たい」
 長谷部が突然バツの悪そうな表情になった。
 「なんだ?」訝しげに権藤が問いかける。
 「実は…」

(つづく)

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