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小説「天上の絵画」第二部

「防犯カメラの映像が無いってどういうことだ!」
 「すいません…」警備員の江谷信三は、額の汗をハンカチで拭った。
 昨夜の二十時半ごろ、マンションのコンシェルジュから警備室に、住人の飼っている猫が逃げ出したので、防犯カメラの映像を確認してほしいと連絡が入った。その時警備室にいたのは、勤務して一週間して経っていない江谷だけで、別の警備員は定期巡回に出ていため不在だった。機械の操作に慣れていない江谷は、別の者が戻ってくるまで待ってほしいと伝えたが、大切な飼い猫がいなくなり住人がパニックになっているから、すぐに対応してほしいと急かされ、仕方なくマニュアルを見ながら、防犯カメラの映像を操作した。
 「結局猫はすぐに見つかったのですが、映像を巻き戻している時に、誤って録画停止ボタンを押してしまったようでして…」
 戻って来た先輩警備員に念のため、迷子の猫の件は報告したようだが、防犯カメラの状態まで確認しなったらしい。
 「録画が止まっているのに、気がついたのは、明朝の交代の時でした」
 つまり、昨夜の二十時半過ぎから明け方の五時まで、マンション中の防犯カメラが機能していなかったことになる。
 「正確な時刻は?」権藤がわずかに語気を強めた。
 「昨夜の二十時四十三分までの映像は残っていますが、その後は明け方の五時六分まで何も…」先に江谷の聴取にあたっていた、二十代の巡査部長が答えた。
 「その時刻なら犯行前の可能性が高い。犯人が映っているかもしれんぞ」
 「残っていた防犯カメラの映像から、被害者が昨夜の十七時十分頃、一人で帰宅したのを確認しました。マンションの警備員とコンシェルジュの方に協力してもらい、被害者が帰宅した後、録画が止まってしまうまでに映っていたマンションの住人ではない部外者を割り出しています。その結果―」巡査部長がキーボードを操作すると、モニターの画面が切り替わった。「この四名が部外者であることが分かりました」
 パイプ椅子に腰かけた権藤は、四つのモニターに映った部外者と思われる人物を、順番に見ていった。
 一人目は、十八時二十八分に現れた三十代くらいの眼鏡をかけた男性。二人目は、十九時二分にエントランスに入って来た上品な雰囲気のふくよかな女性。その次は、黒いジャンパーに身を包み、フードを深く被った人物。背格好から男性と思われるが、彼が二十時三十三分。最後の四人目は、二十時四十分にやってきた、五十代くらいの無精ひげを生やした色黒の男性だった。
 「この四名の身元は?」
 「現在、複数の捜査員がマンションの住民に聞き取りを行っています」長谷部が答えた。
 「こいつだけ、顔が見えないな」権藤は、フードを深くかぶった男のモニターを指差した。「他に映像はないのか?」
 「残念ながら、他の映像でも顔を確認することはできませんでした」
 権藤が唇を軽く噛んだ。住人の中にこのフードの男を知っている者がいればよいが、もしいなかった場合、この映像だけで身元を調べるのは困難だ。
 何か重要な手がかりを映っていないかと、モニターを凝視していると、後方の長谷部が耳に手を当てた。
 「権藤さん、部外者の身元が分かりました」そういってタブレットを開く。
 「全員か?」
 「いえ…二名です。えっと―」指先でタブレットをスライドする。「一人目の眼鏡をかけた男性は、生田祥吾。三十四歳。十三階に住む上沼さんの友人だそうで、昨夜は十八時半頃遊びに来て、二十三時前に帰っていったそうです。生田さんの携帯番号を入手したので、現在捜査員が確認をとっています。そして、四番目の色黒の男性。名前が倉田真澄。五十六歳。二十階に住む娘夫婦に会いに来て、昨夜はそのまま泊まり、今朝の六時頃マンションを出ています。こちらも捜査員が確認をとっています」
 「あとの二人は?」
 「それはまだ、確認ができていません」
 残ったのは、上品な女性とフードを被った男。このどちらかが事件に関与しているのだろうか。
 権藤は腕を組み、天井を仰いだ。
 「あのー」江谷が恐縮しながら手を上げた。
 「何か?」長谷部が軽蔑の眼差しを向ける。
 「いえ…」蛇に睨まれた蛙のように身を縮めた江谷が、逃げるように手を下げた。
 「どうかしましたか?」長谷部にキッと鋭い視線を向け、江谷が目元を綻ばせた。
 「いや、そんな大したことじゃないので…」
 「何か気になることがあるなら、おっしゃってください。一見事件と関係ない何気ない小さなことでも、事件解決につながる大きな手掛かりになることがあるんです」
 権藤が促すと、江谷が小さな声で話し始めた。
 「その男性かは分かりませんが、似た人を深夜に見かけたような気がして…」
 江谷がわずかに身を乗り出した。
 「いえ、あの…遠巻きに見ただけで、本当にその人かどうか自信は…ありません」と首を小刻みに横に振った。
 「何時頃ですか?」
 「二回目の定期巡回だったので、深夜二時過ぎだったと思います」
 「マンションのどこで?」
 「エントランスを出てすぐの、花壇の辺りです」
 「顔を見ましたか?」
 「いえ、遠かったので、顔ははっきり見えませんでした。ただ服装が似ていたので、同じ男性かと思っただけです。あとは―」江谷が言いにくそうに口ごもった。
 「他に気になることがあるなら、話してください」権藤が手を振って先を促した。
 「…バッグが見えたんです」
 「バッグ?」
 「はい。四角い、これくらいの大きさの―」江谷が両手を肩幅くらいに広げた。「それが見えたので、ちょっと気になって…」
 「そのバッグが何か?」
 江谷が顔を下げたせいで、頬に影が差した。
 「実は、亡くなった岩谷さんやそのスタッフさん達がよく持ち運んでいたバッグなんです。見たことない形でしたし、皆さんがいつも持っておられたので気になって、以前、何が入っているのか教えてもらいました。名前はキャンバスバッグといって、絵を描いたキャンバスを運ぶためだけのバッグでした。特殊な形をしているし、幅もないので、他に使い道がないんだと皆さん笑っておられました」
 「それをこの男が?」
 「…だと思います」
 権藤は長谷部の方を振り返った。長谷部は目線だけで頷くと、足早に警備室を出て行った。
 思わぬところから、重大な手掛かりが舞い込んできた。江谷の話が真実なら、キャンバスバッグを持っていたフードの男が、被害者宅を訪れていた可能性が高い。このマンション内に画家であった被害者以外、キャンバスバッグなどというレア物を所持している住人はいないだろう。しかも終電もない深夜二時であれば、タクシーか徒歩で移動しているはずだ。見慣れない特殊なバッグを持っていたなら、タクシー運転手が覚えているかもしれないし、コンビニや町の防犯カメラに男が映っている可能性もある。
 「意外に早く解決するかもしれんな」顎に手をやり、モニターに映る男を見た権藤の瞳が鈍い光を放った。

(つづく)

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